禅宗と景教(再活現成)
イエスの『聖霊のバプテスマ』は、霊的再生を通じて神人一如の世界の具現を目指すものだが、トマスによりインドに伝えられた聖霊のバプテスマは、再活現成(Spiritual rebirth)を根本宗旨とする禅文化を開花させた。今回はイエスが説いた霊的再生と禅宗の『再活現成』に参じて見ましょう。今回はイエスが説いた霊的再生と禅宗の『大死一番、再活現成』に参じて見ましょう。
イエスのエルサレム宗教界デビュー
西暦28年ユダヤ暦11月、サンヘドリンから派遣された祭司とレビ人の代表が、洗礼者ヨハネの証言を聞くため、エルサレム郊外のベタニヤに参集した(ヨハネ1:19)。ヨハネは彼らに「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中にたっておられる。その方がわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつひもを解く値うちもない」と語った(ヨハネ1:26-27)。この記述からすると、イエスはサンヘドリンから派遣された祭司やレビ人の代表団の一員に含まれていたようだ。
宮の清め
こうしてエルサレム宗教界の表舞台にデビューしたイエスは、一旦ガリラヤに戻ったが、1ヶ月後の過ぎ越の祭りに、弟子達とともに神殿に赴き、商人らを神殿から追い払った(ヨハネ2:13-25)。
神殿の商人を追い出したイエスの行為は明らかに、マカバイ戦争でエルサレム神殿をギリシア人から奪回したハヌカの故事を念頭に計画されたものと見られる。
生け贄用の牛や羊を追い出し、両替商のテーブルを引っ繰り返して荒れ狂うイエスの様子を目にした弟子たちは、あまりのすさまじさに唖然とした。
霊的再生
その晩、ニコデモと言う最高法院のファリサイ派議員が、イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできません」。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれても新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年をとってからうまれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」。
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」と(ヨハネ3:1-8)。
イエスはさらに「真理によって生きるものは光の下に来る。それは彼の行いは全て神を通じてなされていることを明らかにするためである」(ヨハネ3:21)と語り、直ちに弟子たちとユダ郊外に赴き、聖霊のバプテスマを施す活動を開始した(ヨハネ3:22)。
大死一番、再活現成
『大死一番、再活現成』は禅門における常套語で、一度死にきり全ての執着を捨て去るなら、本来の自己に立ち返り、大活できると言うもの。
古塚は家にあらず
中国の唐代、新羅泊巌(しんらはくがん)禅師に一人の僧が「禅とは何か」と尋ねた。泊巌禅師は「古塚は家にあらず」と答えた(景徳伝灯録巻17)。
泊巌禅師は、「大死一番して『空性』を悟るとは、決して『色性』を否定し、世俗の煩いから逃れ、白雲や『古塚』の中で坐禅三昧にふける『枯木禅』であってはならない」と戒められたのだろう。
趙州大死底の人
それでは、大死一番して『空性』を悟ったものが、現世に戻ったらどうするたろう。趙州従諗禅師(778~897年)がこの点を投子大同禅師(819~914年)に『大死底の人、却って活する時如何』と問いかけると、投子和尚は、『夜行を許さず、明に投じて須らく到るべし』と答えた。(碧巌録第四十一則:趙州大死底の人)
碧巌録の監修責任者、圜悟克勤禅師は、この公案に、「現世において是非が交結し、順逆が縦横する際は、如何なる聖人も仏も、知ることも弁別することもできない」と垂示(すいじ)している。
したがって、日が暮れたら、むやみに暗闇を徘徊せず、懐中電灯で足下を確認しながら歩くべきだし、氷凌の上を行き、劍刃の上を歩くなどしないに越したことはない。
死活循然
臨済宗円覚寺派管長を務めた朝比奈宗源(あさひな そうげん 1891-1979)老師は、この圜悟の垂示に「死中に活あり.活中に死あり.大死してはじめて大活を得」と訳注している。円悟が「大死一番し,却って活して始めて得べし」と言うように、徹底して死に切った境地(大死一番)からはじめて『再活(霊的再生)』に転じることができる。
臨済義玄(りんざい ぎげん)禅師は、『臨済録』において、「禅宗の見解(けんげ)の如きは、死活循然(じゅんぜん)たり。」と説いている。つまり『死』と『活』は、整然として、且つ臨機応変でなければならないと言うのである。
迎えず送らず
中国宋代(960-1279)の文人政治家蘇東坡(1037-1101)は、太守として杭州に左遷された際、龍井寺に弁才禅師を訪ねた。弁才は新任の太守に自分から挨拶に出向かなかった非礼を詫び「この寺には長年にわ たり『迎えず送らず』と言う規範があり、老僧もこの規範を改めず遵守しております。どうぞご理解いただきたい」と語った。
東坡は大笑し、「私が和尚を訪ねたのは、あなたの道行(どうぎょう)を拝するためであり、あなたの送迎を受けるためではない。ところで和尚は厳しく戒律を守られていると言われるが、如何なる戒、如何なる律を守られているのか」と尋ねた。
弁才は眉をよせ「戒すべきは戒心の一事、律すべきも律心の一事、この他に何がありましょうか」と答えた。
東坡はすかさず「活発に躍動するのが心であり、何を戒め何を律しようというのか。たとえ時空を貫通するような比類のない縄でこの心を縛ったところで、かえって心を扼殺してしまうだけではないか」と反問した。
弁才は大きく頷き、東坡を指さすと「大死一番し蘇生したもののみが、無尽の煩悩を解脱し、心の大自在を得ることができる」と語った。
- 禅宗と景教≪ヨハネ福音書≫と現成公案[13]不思善不思悪○大死底の人、活する時如何-
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『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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