厩戸皇子の伝承には、ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島に異なる時代に渡来した人々の異なる来歴が反映されているようだ。
1万6500年前頃までにサハリン経由で日本列島に渡来した『Y染色体D2』遺伝子を保持する日本列島先住民の縄文土器文化は、1万数千年も持続、ユダヤの12部族に算えられ、同じ遺伝子を保持するエフライム族やマナセ族と、早くもこの時期から交流していたらしい。
二つの天孫降臨神話
記紀によれば、日本の皇室は北九州筑紫の高千穂の峰に降臨した天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の直系とされる。天照大神は、天上界を追放された実弟須佐之男命(すさのうのみこと)が下界に建てた出雲国を須佐之男命の娘婿(あるいは6世の孫)の大国主命から譲り受けた後、瓊瓊杵尊にその経営を命じた。
瓊瓊杵尊の曾孫神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)は、元々北九州の筑紫辺りに存在したらしい出雲国から日本列島の中心に位置する大和に遷都する方針を決めた。ところが大和には天照大神の別の孫、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が建てた国が已に存在していた。数度の激戦の末、互いに同じ天遜族であることを認め合い、饒速日尊は、神日本磐余彦尊に帰順した。ここにおいて神日本磐余彦尊は、辛酉年1月1日、西暦紀元前660年2月11日に、畝傍橿原宮(ウネビノカシハラノミヤ:現在の奈良県)において神武天皇として即位、日本を建国した。
饒速日尊が降臨した詳細は、記紀には、伝えられていないが、『先代旧事本紀』によると、その随員は遙かに瓊瓊杵尊の随員を上回っていた。
田中英道(たなか ひでみち、1942 - )東北大学名誉教授によると、群馬県多野郡上野村高天原山は、古事記や日本書紀に記された高天原や日高見国に比定される縄文人の文化圏が関東や東北地方に存在した証左と言う。恐らく二つの天孫降臨神話には、気候の寒冷化に伴う関東や東北地方の縄文人文化圏の南方への移動や南方に渡来した弥生人文化圏の北上の歴史が反映されているものと見られる。
神武天皇の朝鮮ルーツと出雲大社
日本書紀は神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)は新羅王の祖としている。つまり北九州の朝鮮系豪族が天孫饒速日尊の大和王朝を接収し、神武王朝を建てたことを暗示している。
ちなみに記紀には最初に大和王朝を建てたとおぼしき天皇が二人登場する。第一代の神武天皇と第十代の崇神天皇(すじんてんのう)である。神武天皇の古事記の呼称は神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)だが、日本書紀には始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)と記されている。また崇神天皇に関しても古事記には『初国知らしし御真木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)』、日本書紀には『御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)』と述べられており、どちらも最初に国家を統治した天皇と言うことになっている。
今日、第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第九代開化天皇(かいかてんのう)までは、古代日本史上において、系譜のみで事績が不明瞭な『欠史八代(けっしはちだい)』と称されている。しかし、第二代から第九代までの系譜には、饒速日尊を祖とする、神武東征以前の大和朝廷の系譜が反映されているのかも知れない。
また第十代崇神天皇は大物主尊(おおものぬしのみこと:出雲大社の祭神)を祭り疫病を鎮めるとともに、『万世一系』の詔を発したとされる。
三韓征伐と応神天皇
仲哀天皇の崩御後に身重の体で三韓征伐を断行した神功皇后が、帰国後に生んだ譽田尊(ほんだわけのみこと)が、第十五代応神天皇(おうじんてんのう)とされるが、その実在性も疑問視されており、第十六代仁徳天皇(にんとくてんのう)と同一人物としたり、第二十六代継体天皇(けいたいてんのう)を天皇家の系譜に加えるために挿入された架空の天皇とする説も存在する。
とは言え、応神天皇(AD200-AD310)の治世には百済や新羅の使節の他、学者や技術者が頻繁に渡来した。特に即位14年には秦の始皇帝(BC259-BC210)三世の孫で、秦氏の祖先とされる弓月君が百二十県の民を率いて帰化を希望したものの、新羅の妨害を受け、加羅で立ち往生していたため、応神天皇は二度にわたり朝鮮に派兵し、弓月の民の渡来を実現したとされる。
この応神天皇から始まる王朝は河内(大阪府東部)に宮や陵を多く築いていたことから『河内王朝』と呼ばれる。
国際文化振興財団元理事の種田光一朗(たねだこういちろう)氏は、天皇家の系譜を見ると、第一代神武天皇、第十代崇神天皇、第十五代応神天皇の三人の名に『神』の字が用いられており、天皇家に新しい血が入った際に神(=光胤)と言う文字が用いられたと指摘する。
日本書紀によると、第十一代垂仁天皇(すいにんてんのう)は、渡来した大伽耶国(だいかやこく)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)を本国に返すにあたり、父崇神天皇の諱(いみな)『御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)』の御間城(みまき)を国名にするよう求めた。これが後に朝鮮半島の日本府になった任那(みまな)の由来とされる。『任那』は朝鮮半島南部の『伽耶(かや)小国群』のなかの一つ『金官国(きんかんこく)』の別称だった。
このことから東京大学の江上波夫(えがみなみお1906-2002)名誉教授は、朝鮮半島の任那から来た北方騎馬民族による日本征服説を提起し、崇神天皇の諱は同天皇が朝鮮から渡来したことの証左とした。いずれにしても古事記や日本書紀はしきりに天皇家のルーツが朝鮮半島にあることを暗示している。
武内宿禰と蘇我氏の興起
ちなみに心理学者で日本史研究家の安本美典(やすもとびてん:1934-)氏は、応神天皇は、神功皇后(じんぐうこうごう)が武内宿禰(たけうちのすくね)との間に儲けた私生児と見ており、だとすれば武内宿禰の後裔の葛城氏(かずらきし)や蘇我氏(そがし)のその後の興起もうまく説明できると述べている。
第八代孝元天皇(こうげんてんのう)の曾孫で、祭祀権と軍事権双方を有する大臣(おおおみ)として、景行(けいこう)/成務(せいむ)/仲哀(ちゅうあい)/応神(おうじん)/仁徳(にんとく)五代の天皇に仕えた武内宿禰の孫の石川麿(いしかわまろ)が、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代に蘇我姓を名乗り、蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)と呼ばれた。
二代目蘇我満智(そがのまち)は、第十七代履中天皇(りちゅうてんのう)が、即位2年、磐余(いわれ)に遷都した際、物部伊莒弗(もののべのいこふつ)、平群木菟(へぐりのつく)、円大使主(つぶらのおほみ)らとともに国政に参画したが、世継ぎがなかったため、百済から人質として渡来した林聖太子(りんしょうたいし)の孫を養子として迎えた。これが蘇我韓子(そがのからこ)で、朝鮮系随一の官吏として宮中で活躍するようになったと言う。
田中英道(たなか ひでみち)教授によると、『蘇我』とは『我よみがえり』の意で、蘇我氏が、『イエスの復活』信仰を掲げる景教徒であったことを物語っていると言う。
継体天皇は秦一族
第二十五代武烈天皇(ぶれつてんのう)が後嗣を残さずに崩御したため、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)や物部麁鹿火(もののべのあらかび)、大臣(おおおみ)の巨勢男人(こせのおひと)などの群臣は、応神天皇の五世の孫とされる越前(福井県を中心にした北陸地方)の豪族男大迹王(おほとのおう)に白羽の矢を立てった。紆余曲折の後、男大迹王は507年に河内国樟葉宮(くすばのみや)において第二十六代継体天皇として即位したものの、その後長期にわたり大和入りせず、19年後の526年に初めて大和に宮を定めた。このため継体天皇をそれ以前の大和王権とは血縁を有せぬ別個の王朝の始祖と見、その王朝を越前王朝と称する歴史学者も存在する。
継体天皇は、第二十四代仁賢天皇の皇女手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間に生まれた天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと=欽明天皇)を嫡男とした他、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の女(むすめ)目子媛(めのこひめ)との間に勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ=安閑天皇)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ=宣化天皇)をもうけた。
記紀は安閑天皇の子女に触れていないが、室町初期に編纂された『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』にると、安閑天皇には豊彦王(とよひこのみこ)と言う皇子がおり、豊彦王は秦河勝と同一人物と言う。だとすれば、継体天皇もまた、朝鮮から渡来した秦の始皇帝の末裔とされる秦氏一族だったことになり、さらに敷衍すれば、秦の始皇帝(BC259-BC210)自体も、アラム語を話す遊牧民マナセ族の末裔だった可能性がある。
磐井の乱と欽明天皇のクーデター説
大和に遷都した翌年、新羅の侵攻を受けた百済から救援を求められた継体天皇は、朝鮮に遠征軍を派遣しようとしたが、北九州筑紫の豪族磐井(いわい)が新羅と結んで反乱を起こした。この反乱の鎮圧により、継体天皇は、その王権の基礎を固めたとされる。
また一方、『日本書紀』は、『辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった』という『百済本記』の記述を引用し、継体天皇の晩年に政変が生じたことを示唆している。このため継体天皇とその本来の後継者であった安閑・宣化が殺害され、欽明天皇が即位したのではないかとの説が生じた。
丁未の乱
≪日本書紀≫によれば、西暦552年、百済の聖明王(せいめいおう)が欽明天皇(きんめいてんのう)に仏像や経典とともに、仏教の振興を勧める書簡を呈した。
欽明天皇は、百済の提案を如何に処理すべきかを群臣に質した。大和朝廷の神事を司る物部氏(もののべし)や中臣氏(なかとみし)は反対したが、渡来人勢力や朝鮮半島との関係の深い蘇我氏(そがし)は仏教の振興に賛成した。朝廷における群臣の意見が二分したため、欽明天皇は自ら仏教に帰依することを断念し、蘇我稲目(いなめ)に仏像を授け私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、これを機に神事を司る物部氏と仏教振興に熱心な蘇我氏の朝廷内における権力闘争が過熱した。
用明天皇(ようめいてんのう)の死後、稲目の子、蘇我馬子(うまこ551-626)と物部守屋(もりや?-587)はそれぞれ欽明天皇の二人の皇子、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と穴穂部皇子(あなほべのみこ)の擁立を図り、武力衝突し、いわゆる丁未の乱(ていびのらん)が生じた。結局蘇我氏の勝利に終わり、泊瀬部皇子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位、物部氏は朝廷から一掃された。
崇峻天皇殺害
崇峻天皇は、大伴糠手子(おおとも の ぬかてこ)の娘、大伴小手子(こてこ)との間に蜂子皇子(はちのこのおうじ)をもうけたが、蜂子皇子が皇位を継承すれば、蘇我氏は外戚の地位を確保できなくなり、大王家の嫡流が崇峻系に移ってしまう可能性があった。
崇峻天皇は、591年、任那復興を自ら発議、二万余の兵が筑紫に出陣し、新羅を問責する使者が発遣された。しかし外交をめぐり、天皇と蘇我氏の軋轢がました可能性がある。
崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された際、崇峻天皇は「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言した。これを聞いた馬子は、同年、東国から調(みつぎ)があると偽って、東漢駒(やまとのあや の こま)に崇峻天皇を殺害させた。
<以下次号>
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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