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禅宗と景教(驀直に去れ)

二度目の蒙古襲来を予測した渡来僧無学祖元は、弘安の役(1281年)が勃発する1カ月前、「莫煩悩(煩い悩むなかれ)、驀直去(まくじきにされ)」と、鎌倉幕府の執権北条時宗を一喝した。 今回は無学祖元の『莫煩悩、驀直去』の公案に参じて見ましょう。
<スライドショー:驀直に去れ>


プレスター・ジョン伝説
イスラム教の版図が急速に拡大した12世紀初頭、東方の一大キリスト教国を統治するプレスター・ジョンの伝説が生じた。プレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味し、ラテン語はPresbyter Ioannes、ジョン司祭、あるいは司祭王ヨハネスの意。
インド東方教会のジョン(ヨハネ)大司教は1122年、ローマ教皇カリストゥス2世と会談、インド・キリスト教会の盛況ぶりを報告した。
シリア・アンティオキア教会のジョン・ヒュー司教は、1145年、ローマ教皇エウゲニウス3世に拝謁、プレスター・ジョン王が、サマルカンド付近でトルコ軍を撃破し、エルサレム救援を試みたがチグリス川の増水に阻まれ、成功しなかったことを報告した。このため法王は、第二次十字軍の遠征を呼びかけた。
1165年には、ローマ法王アレクサンデル三世、ビザンチン皇帝マヌエル一世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世にプレスター・ジョンの親書が届いた。このため、12年後プレスター・ジョンへの返書を携えたローマ法王の使節団がベネチアから派遣されたが、ジョンの回答はなかったようだ。
チンギス・ハーンの養父

フランシスコ会宣教師で探検家のウィリアム・オブ・ルブルックやマルコ・ポーロの『東方見聞録』によれば、ネストリウス派祭司でケレイト族の領主であったプレスター・ジョンは、テムジン(チンギス・ハーンの本名)の養父だった。同伝説では、ケレイト族の領主トゥグルルとプレスター・ジョンが同一視されている。
テムジンの父イェスゲイは、1171年、テムジンが9歳の時亡くなった。トゥグルルはイェスゲイの死後、将来のハーンを育て、テムジンの初期の同盟者の一人だったが、二人は不和になった。
テムジンは1189年モンゴル高原の遊牧民諸部族を率いるハーンに選ばれた。テムジンは、同盟関係にあったプレスター・ジョンの弟ヴートの娘と自分の息子の婚姻を求めたが、身分の低い家臣の要求に激怒したプレスター・ジョンが、テムジンの要請を断ると、1203年戦争になり、プレスター・ジョンは破れて、その国(ケレイト部)は滅びた。
テムジンはトゥグルルの兄弟ジャカ・ガンブの娘、ソルガタニ・ベキを捕らえ、息子トルイと結婚させた。二人の間には、モンケ(第4代ハーン)、クビライ(第5代ハーン)、フレグ、アリク・ボケなど、多くの子供が生まれた。
チンギス・ハーンの誕生

テムジンは1206年、フフ・ノールに近いオノン川上流に諸部族の指導者たちを集めたクリルタイを開き、諸部族全体の統治者たるチンギス・ハーンに即位、モンゴル帝国を開いた。チンギスと言う名称は、ココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がおくった尊称で、テュルク語で『海』を意味するテンギズ (tenggis / tenngiz) が語源とする説や『世界を支配する者』の意とする説がある。
大モンゴル国建国

モンゴル高原、南シベリア、中央アジアまで勢力を広げたチンギス・ハーンは、国号を『イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)』に改め、金朝への全面侵攻を開始した。金朝は中都(後の大都/北京)を放棄、河南の開封へ遷都した。チンギス・ハーンは、1218年には中央アジアのオアシス諸国に侵攻、ホラズム・シャー朝を壊滅させたが、1227年、西夏遠征中に陣没した。
第2代皇帝オゴディ

チンギス・ハーンの生前の勅令に基づき直属軍の8割を相続した4男トルイの支持を得た三男オゴディが、1229年第2代皇帝に就任、首都をカラコルムに定めた。彼は古代のカガン(qaγan可汗)に由来する「カアン qa'an」(のちのハーン)を皇帝号とした。
カラコルムで1235年に開かれたクリルタイでは、南宋とヨーロッパ遠征が決議された。ヨーロッパ遠征軍は、ワールシュタットの戦いにおいて、ポーランド王国、神聖ローマ帝国、テンプル騎士団、ドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団などのヨーロッパ連合軍を撃破したが、1242年のオゴデイの死に伴いモンゴルへ帰還した。

第3代皇帝グユク
オゴデイが生前後継者に指名していた三男クチュが南宋攻撃中に陣没したことから、オゴデイの皇后ドレゲネは、実子のグユクを第3代皇帝に擁立したが、クチュの長男シレムンやチンギス・ハーンの長男ジョチの次男でヨーロッパ遠征軍の司令官を務めたバトゥとの軋轢が生じた。しかし、グユクは即位後わずか2年で、1248年に崩御した。
ローマ教皇、モンゴルに使節派遣

モンゴル軍がワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツの連合軍を破った翌々年の1243年に教皇の座に着いたインノケンティウス4世は、モンゴルの侵攻に対する十字軍を呼びかける一方、モンゴル軍と提携してイスラム軍を挟み撃ちにする和戦両様の計画を立て、1245年フランシスコ会士ジョバンニ=デ=プラノ=カルピニを使節として派遣した。ポーランドからロシアに入り、1年3ヶ月にわたる旅のすえ1246年にカラコルムに着いたカルピニは、第3代ハーン・グユクから教皇に宛てた返書をもち、1247年の秋、リヨンに帰着した。
第4代皇帝モンケ

グユク皇后のオグルガイミシュは、引き続きオゴデイ家から皇帝を選出しようとしたが、バトゥは叔父トルイの長男モンケを皇帝に即位さようとし、両派の対立が続いた。
バトゥは、トルイ家や東方三王家とも協議して、コデエ・アラルの地でクリルタイを開き、チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男のモンケを第4代皇帝に選出した。
モンケは、即位後、先帝の皇后オグルガイミシュやシレムン、イェス・モンケなどオゴデイ家やチャガタイ家の反対派を処刑したり、粛清した。
モンケは、次弟のクビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を図り、三弟のフレグを征西方面軍総司令官に任じてイラン方面に侵攻させ、1258年にはアッバース朝を滅ぼした。
しかし、有能な次弟クビライを恐れて、これを更迭したため、南宋の征圧は遅れた。モンケは1258年、自ら出陣し、四川方面から南宋攻略を目指したが、翌年7月末に重慶を攻略した後、合州の釣魚山の陣内で急死した。後継者についての遺言もなかったことから、帝位継承争いが勃発、南宋を攻撃していたモンゴル軍は全戦線から一斉に撤退した。

帝位継承戦争
モンケの陣没後、南宋攻撃の別働隊を率いていた次弟のクビライが金蓮川(上都/開平:現在の中華人民共和国内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)で、皇帝に即位すると、首都カラコルムを守備していたトルイ家の末弟アリクブケも即位を宣言したため、モンゴル帝国は分裂、内戦状態に陥った。

ベルケ・フレグ戦争
一方、征西方面軍の総司令官を務めていたトルイの三男フレグは、イランに留まり西アジアを支配する自立政権、イルハン朝を樹立した。しかしイルハン朝は、南カフカスの草原地帯の支配をめぐって、ジョチ・ウルスを継承したバトゥの弟ベルケと対立、ベルケ・フレグ戦争が生じた。
カイドゥの乱

またチンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシンの子、カイドゥ(Qaidu、? - 1301年)は、30年以上にわたってクビライの元帝国と対立、中央アジアに独立王国を建設、中央アジア以西のモンゴル諸勢力の皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に『カイドゥの乱』と呼ばれる。
第5代皇帝クビライ

クビライは、1264年トルイ家の末弟アリクブケを降し、帝位継承戦争に勝利、名実ともに第5代皇帝となったが、その支配が直接及ぶのはモンゴル高原、天山ウイグル王国、チベットより東側のみになった。
ヨーロッパ遠征はもとより最早、西征が不可能になったクビライは、1264年燕京(北京)を中都(暫定首都)とし、南宋攻撃を中心とする東アジアの制圧に専心した。
クビライVs北条時宗

クビライは、1266年、『大蒙古国皇帝奉書』を作成、日本に使節を派遣する一方、1267年には大都(正式の首都)の建設に着手した。
クビライの使節は、高麗国王元宗に仲介を命じたが、高麗は朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内したものの、航海の危険や日本との通交の不利を訴えたため、使節団は高麗の官吏を伴って帰国、遣使は不首尾に終わった。
クビライは前後6回、日本に使節を派遣したが、1268年に第8代執権に就任した北条時宗(17歳)は、モンゴルからの国書には、一切返事せず、朝廷が作成した返牒案も採用しなかった。
その一方で、前執権の北条政村や義兄の安達泰盛、北条実時、平頼綱らに補佐された時宗を頂点に戴く鎌倉幕府は、西国御家人に戦争の準備を整えさせ、社寺に異国調伏の祈祷を行わせた。
鎌倉幕府がなぜ頑なにモンゴルからの国書に返牒しなかったかと言えば、幕府には、正当な外交権限がなく、京都の朝廷がしゃしゃり出てくるのを嫌ったためと見られる。
元の皇帝の国書に対等に返答できるのは天皇をおいて他になく、征夷大将軍の補佐官に過ぎない執権時宗の出る幕は、元の襲来を駆逐する時だけである。
北条得宗家の期待を一身に背負った時宗にとって最大の脅威は、京都朝廷あるいは源氏の復権であり、海を隔て襲来する蒙古の脅威は二の次に過ぎなかったと見られる。

文永の役
こうした中で、1274年(文永11年)、終に元軍が襲来、所謂『文永の役』が生じた。蒙古・漢軍:1万5000~2万5000人、高麗軍:5300~8000人、合計:2万7000~4万人を乗せた726~900艘の軍船が対馬/壱岐に続き、肥前沿岸に襲来した。
対馬・壱岐の状況が大宰府に伝えられると、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報が発っせられた。大宰府に集結した九州の御家人らは、激戦の末、内陸部への侵攻を辛うじて阻止、台風の助けもあって、元軍は退散した。

翌年、杜世忠を初めとする元使が来日、降伏を求めると、鎌倉で引見した時宗は、連署(執権の補佐官)の北条義政の反対を押し切って処刑した。北条義政は、これに抗議し出家したため、1283年まで連署は空席となった。その後、1279年に来日した周福を初めとする元使も、大宰府で処刑させた。鎌倉幕府は一旦は、高麗出兵を命じたが、軍費等を勘案した結果中止し、博多湾岸の石塁構築等、国防強化に務めた。
臨刃偈(りんじんげ)

鎌倉建長寺の開山蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)禅師亡き後、北条時宗の招聘を受け来日した無学祖元(むがく そげん)禅師は、二度目の蒙古襲来を予測するとともに、弘安の役(1281年)が勃発する1カ月前、「莫煩悩(ばくぼんのう:煩い悩むなかれ)、驀直去(まくじきにされ)」と、時宗を一喝した。
鎌倉建長寺と円覚寺に兼住、時宗を初めとする多くの鎌倉武士に影響を与えた祖元禅師は、中国南宋の宝慶2年(1226年)に慶元府(けいげんふ:現在の浙江省寧波専区)鄞県(きんけん)に生まれた。嘉熙元年(かきがん年1237年)、臨安府浄慈寺(じょうじじ)の北礀居簡(ほっかん きょかん)のもとで出家、径山寺(きんざんじ)の無準師範(ぶしゅんしばん)に参じ、その法を嗣いだ。元軍が侵攻したため台州(現在の浙江省)の真如寺から温州の能仁寺に避難したが、寺は元軍に包囲された。他の僧侶は皆逃げ去ったが、無学祖元禅師は、ただ一人禅堂に端座、禅定三昧泰然自若としていた。すると一人の元兵が祖元禅師の首筋に鉄剣をあて、「立て」と命じた。祖元禅師は、少しも騒がず従容として立ち上がり、払子で一円相を描くと、以下の偈頌を唱詠した。

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乾坤無地卓孤筇 且喜人空法亦空 珍重大元三尺剣 電光影裏春斬風《仏光国師語録拾遺》
乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるに地なし、喜び得たり、人(ひと)空(くう)にして、法もまた空なることを、珍重す、大元三尺の剣電光、影裏に春風を斬らん
孤筇とは、錫杖の代用品としても用いられる四川省あたりに自生する竹の一種で、祖元禅師自身を指している。つまり、この宇宙には、立錐の余地がなく、祖元禅師が立つ場所などどこにもない。幸いに人間は本来空であり、仏法も空である。大元は元の国号。元兵の三尺の剣は、なんと立派なことか。電光のごとくひらめき、春風のごとく私の首を断ち切ることだろう。
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すると、元兵は、感嘆し、何もせず退散したと言う。この故事は、如何なる大難も克服する祖元禅師の胆力を立証するものだが、この偈頌を理解し、祖元禅師の偉大さを見て取った元兵も、只者でないことを示している。
一方、鎌倉建長寺で修行後、比叡山で受戒、京都建仁寺に入門した雪村友梅(せっそんゆうばい 1290-1347)は、1307年に18歳で渡海、元へ赴き大都(北京)周辺で諸師に参じ修行していたが、スパイ容疑で拘禁され、処刑されかけた。しかし雪村友梅が、トッサに刑吏の前で祖元禅師の臨刃偈を詠唱したところ、感嘆した刑吏は、処刑を見合わせたと言う。つまり元朝においては一介の兵士や刑吏に至るまで、臨刃偈を理解し、感嘆する器量を具えていたようだ。
禅僧を重用した歴代ハーン

モンゴル帝国は、その発祥当初からネストリウス派キリスト教と深い因縁を有したばかりでなく、チンギス・ハーンを初めとする歴代のハーンは、いずれも禅僧を側近として重用していた。
遼(契丹)の宗族出身で、禅に深く帰依し、湛然居士(たんねんこじ)と号した耶律楚材(やりつ そざい1190-1244)は、モンゴルの侵攻で、金の中都(現在の北京)が陥落した際、左右司員外郎を務めていたが、家柄がよく長身長髭で態度が堂々としており、天文と卜占に通じていたためチンギス・ハーンの目に止まり、召し出されてチンギス・ハーンの側近として仕えることになった。チンギスの死後に後継者を巡ってクリルタイが紛糾すると、チンギスの遺志を尊重してオゴデイを立てることを説き、オゴデイの即位に大きく貢献したとされる。オゴデイが即位すると、漢語担当の書記官(ビチクチ)として仕え、漢文史料上で中書省と呼ばれた書記機構の幹部となり、旧金朝領華北(=ヒタイ地方)の統治に携わった。儒学を家業とする家を「儒戸」に指定する制度を考案し、税を軽減するかわりに儒教の学問と祭祀を行わせ、実務官僚層の供給源とした。オゴデイは中国の歴代王朝にならって孔子の子孫を保護するが、これも楚材の進言によるとされる。しかしオゴデイの晩年には、西アジア式に人を単位として課税する人頭税制度を中国に導入することを説く中央アジア出身のムスリム財務官僚層が台頭して中国行政について干渉するようになり、伝統的な中国式統治システムを維持しようとする楚材らの派と対立した。結局、西アジアの財務官僚に任せる方が単純に収入を確保しやすいことからモンゴル人は彼らを重用するようになり、楚材らは信任を失っていったと言う。
漢文化に心酔したクビライ

英語版ウィキペディアによれば、クビライ・ハーンの初期の人生で最も顕著なことは、また彼の人生に最も影響を及ぼしたものは、彼の同時代の漢文化の研究と、強い関心であった。クビライは、中国北部の著名な仏教僧侶、海雲をモンゴルにある自身のオルド(教区)に招いた。海雲はまた、元々道教徒で、当時は仏教僧であった劉炳忠を紹介した。画家、書家、詩人、そして数学者でもあった劉は、海雲が今日の北京にある彼の寺院に戻った際には、クビライの顧問になった。
クビライ・ハーンと元朝は明らかに仏教を支持していたが、チャガタイ・ハン国、ジョチ・ウルス国、イル・ハン国は、その後、歴史のさまざまな時期にイスラム教に改宗した。ジョチ・ウルス国のベルケはクビライの時代における唯一のイスラム教徒であった。しかし彼の後継者はイスラム教に改宗しなかった。
弘安の役

元軍と高麗軍を主力とした東路軍約4万~5万6989人を乗せた軍船900艘が、1281年(弘安4年・至元18年)5月3日、高麗国王・忠烈王の閲兵を受けた後、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を日本に向けて出帆した。
また旧南宋軍を主力とした江南軍約10万人を乗せた軍船3500艘が同年6月中旬、慶元(明州)や定海等から出航した。
東路軍と江南軍の総数は、軍船4400艘、兵員約14万~15万6989人にのぼり、壱岐島や鷹島で日本軍と激戦を演じたものの、7月30日夜半の台風の襲来で、多くの軍船が沈没、損壊したため、九州本土に上陸するに至らず撤退した。東路軍が日本を目指して出航してから約3カ月、博多湾に侵入して戦闘が始まってから約2カ月後のことであった。
北条時宗の死去

二度の元軍の襲来を撃退したものの、御家人などに対する恩賞問題や財政難の中での元軍再襲来に対する国防強化など、難題に直面していた時宗は、体調不良から1284年(弘安7年)4月4日に出家、同日34歳(満32歳)で死去した。鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。
クビライ死去

クビライは、5年にわたる内乱が鎮静した後、第三次日本遠征を計画したが、1294年(永仁2年・至元31年)に死去した。これにより高麗での造船計画は停止され、日本侵攻計画も中止された。
江浙省平章政事イェスタル(也速答兒)から第三次日本遠征を建議されたクビライの後継者第6代皇帝テムル・ハーンは、「今は其の時に非ず。朕、おもむろに之を思わん」と述べ、同進言を退けた。以後、元において日本侵攻計画が持ち上がることは無かった。
テムル・ハーンVs北条貞時

テムル・ハーンは、補陀禅寺(ふだぜんじ)の僧、一山一寧(いっさん いちねい)に国書を託し、正使として日本に派遣した。
第9代執権北条貞時は、正使を鎌倉に連行、伊豆の修禅寺に留め置いた。一山一寧は、その後、高僧として厚遇され、建長寺住持を務めた他、後宇多上皇の招きにより京都南禅寺3世に任じられ、1317年(文保元年・延祐4年)日本で死去した。
- 禅宗と景教≪聖霊のバプテスマ、達磨の心印≫[参照]莫妄想 -
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『聖霊のバプテスマ』とは一体何か

ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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