書評:禅宗と景教(花婿と花嫁の部屋)
<スライドショー:花婿と花嫁の部屋>
ナレーション
旧約ダニエル書の70週の預言に基づく救世主来臨の期待が高まり、地中海沿岸で発生した教会運動の波がエルサレムに押し寄せた頃、イエスは、大祭司カイアファの屋敷に隣接したエッセネ派の集会所を拠点に、対話を通じた『聖霊のバプテスマ』を施す運動を開始したものと見られます。
イエスの双子の兄弟と称される十二使徒の一人、ディディモ・ユダ・トマス(ディディモはギリシア語で双子、トマスもアラム語で双子を意味します)は、イエス昇天の2年後、したがって西暦35年頃アッシリア、次いでインドに伝道、その後西暦62年に中国の北京にまで赴いたと言われます。こうしてイエスが創始した『聖霊のバプテスマ』は、東方世界に伝播、当時勃興していた大乗仏教や道教と融合し、浄土信仰や禅文化を開花させ、さらにはイスラム教の誕生にも寄与しました。
そこで、中国における禅宗興隆の起爆剤になったネストリウス派キリスト教(景教)の東方伝来に注目、新書『禅宗と景教』をお届けします。福音書や使徒行伝、パウロ書簡の内容を古則公案と対照することにより、読者の皆様とともにイエスが我々に提示した現成公案に参じて見たいと思います。
ちなみに禅宗の師家が禅堂で学人に与える課題を『公案』と言い、公案録に記録されている先人の『禅問答』を『古則公案』、人々が現世で直面する問題を『現成公案』と言います。
師家(イエス)と学人(ペテロ、ヨハネ、トマス等)の一期一会の商量において、提示される公案の見解(けんげ)は、ペテロはペテロのもの、ヨハネはヨハネのもの、今日は今日のもの、明日は明日のもので、決して一様ではありません。あなた自身の見解がもとめられます。
それでは、以下に、新書『禅宗と景教』の内容の一部をご紹介いたしますので、興味が有りましたら電子版もしくはペーパーバック版をご一読頂ければ、幸いです。
花婿と花嫁の部屋の譬え
ある日、弟子達が「先生、来て下さい。今日は皆で祈り、断食をしましょう」と呼びかけると、イエスは、「私がどんな悪事をし、何をしくじったと言うのか」と反問し、「しかし花婿が花嫁の部屋から出て来たら、断食をし、祈ったらいい」と応じた。(トマス104)
『祈り』や『断食』は、『真実不虚』に回帰するためのプラクティスであり、自分もお前達も、今は必要ない。しかし花婿(イエス=本来の自己)が花嫁の部屋(天国)から出てくる時、即ち再臨の時には断食をし、祈りを捧げたらいい。つまり、祈りや断食は、大死一番して再活現成し、本来の自己(至高神=イエス)に立ち返るためのプラクティスと言うのである。
パウロの洗礼
パウロもローマ信徒への手紙の中で、「我々が洗礼を通じてイエス・キリストに帰一した時、我々は彼と死を共にしたことを忘れたのですか。何故なら、洗礼を通じキリストと共に死にキリストと共に葬られた我々は、ちょうどキリストが父の輝ける力により死から蘇ったように、新たな命を得て生きることができるからです。何故なら我々は既にキリストと死を共にしたのだから、我々も彼と同様に蘇ることができるのです。(ローマ6:3-5)」と説いている。
断食と安息
イエスはまた別の日に「あなた方がこの世に対して断食をしないなら、あなた方は御国を見ることができない。また安息日を安息日としないなら、父を見ることもできない」(トマス27)と説いた。
『父』も『御国』も『本来の自己=至高神』の隠喩で、『この世に対して断食をする』とは、現世の所縁を断ち切ることに他ならない。現世の所縁を断ち切った平安の状態が『安息日』であり、安息日を安息日としないなら、本来の自己に立ち返ることはできないとイエスは説いた。
御国
ある日、弟子だちがイエスに「御国は何時到来するでしょう」と尋ねた。イエスは「待ち望んでいるうちは来るものではない。また『ここにある』、『あそこにある』などとも言えない。御国は地上に拡がっているが、人々はそれを見ないだけである」と答えた。(トマス113)
御国は、天地開闢の時から今に至るまでずっと存在しており、我々自身が至高神と一体の自己に目覚めさえすれば、即今ただ今そこに現成する。だから釈迦は菩提樹の下であけの明星を見た時、「天上天下唯我独尊、草木国土悉皆成仏」と証見したのであり、パウロも、「御国とは、何を食べ、何を飲むべきかと言う問題ではなく(飲食行住坐臥の全ての場面を通じて)聖霊と一体になり、誠実で平和な生活をおくる喜びを実感すること(ローマ14:17)」と説いている。彼はまた「しかしもしあなたが何かを食べるべきか否か迷いながら、食べるとすればあなたは罪を犯しているのです。なぜならあなたは確信のないことをしているからです。あなたが正しくないと信じることをするとすれば、あなたは罪を犯しているのです(ローマ14:23)」と補足している。
- 禅宗と景教≪トマス福音書≫と現成公案[11]沙門の行〇花婿(本来の自己)と花嫁の部屋(御国)の譬え -
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婚姻神秘主義
神学者の桑原直己筑波大学名誉教授(1954-)によると、旧約聖書に収められた『雅歌(がか)』において、『花婿』は神、『花嫁』はイスラエルの民の隠喩であり、キリスト教においても、伝統的に『キリスト』を『花婿』、『教会』もしくは『魂』を『花嫁』になぞらえて解釈されてきた。特に神への愛と祈りとを志向する『修道院神学』において、自らの魂を花嫁、神ないしはキリストを花婿になぞらえ、神に向かう魂の愛を表現する『婚姻神秘主義(Brautmystik)』が醸成されたと言う。
(『婚姻神秘主義』と『本質神秘主義』https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/40985/files/SP_42_118.pdf)
仏教の霊性とキリストの御霊
昨年9月に
『聖霊のバプテスマ』と言う一文をWeb公開した際、コイノニア会代表で甲南女子大学名誉教授をお務めになる私市元宏(きさいちもとひろ)先生から、『禅とイエスの御霊とに関する、とても興味深い御論考を有り難うございました。』と言うメッセージを頂き、ました。実は、先生のご指摘を受け、『禅宗と景教』の出版を思い立った次第です。私市先生はその後、『胎蔵曼荼羅の解説』と『私への返答』の二つの文書が入ったDVDをお届け下さいました。
村上厚様へ
お送りいただいた文書は、その内容が大きく、そこには、中国の禅仏教と、それが目指す「悟り」の「人としての自己理解」が含まれています。
さらに、トマス派の思想と景教とがこれに関係していて、その上で、日本の仏教において重要な役割を担う空海に言及しています。
この文書が提示する問題点は、禅仏教が啓(ひら)く悟りと、トマス派(グノーシス主義)の知性と、キリスト教会が唱える御霊にある霊知。「悟り」と「人知」と「霊知」のこれら三つが提示する「人間の自己理解」は、どのように関わり合うのか? という課題に絞られると思います。
これは「重要な難問」です。三者が伝える人間の自己理解の相互関係を探るのは容易でありません。目下、なるべく簡潔に分かりやすい文書のかたちにして、できれば郵便で送りたい思っていますので、もうしばらくお待ちくさい。(後略)
2024年10月4日
私市元宏
【参照】
コイノニア(KOINONIA)
聖書と講話(Bible and Talks)
胎蔵曼荼羅図とキリストの御霊(The Womb Mandala and the Spirit of Christ)
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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