厩戸皇子Ⅲ
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第三部:蘇我氏と厩戸皇子
高天原から降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)や邇邇藝命(ににぎのみこと)に随身した中臣氏や物部氏を含む諸神の後裔は、既にユダヤ教に接触していたようだが、武内宿禰の孫の石川麿は、応神天皇の時代に渡来した秦氏がもたらした景教に改宗し、『イエスの復活』を象徴する『蘇我』姓に改めたものと見られる。石川麿から5代目の蘇我稲目は景教と融合した仏教の導入と振興に努めたが、神事を司る中臣氏や物部氏との間に軋轢が生じた。
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第八代孝元天皇(こうげんてんのう)の曾孫で、祭祀権と軍事権双方を有する大臣(おおおみ)として、景行(けいこう)/成務(せいむ)/仲哀(ちゅうあい)/応神(おうじん)/仁徳(にんとく)五代の天皇に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の石川麿(いしかわまろ)が、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代に蘇我姓を名乗り、蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)と呼ばれた。
田中英道(たなか ひでみち)東北大学名誉教授によれば、武内宿禰は、神別に算えられる。平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録(しんせん しょうじろく)』は、天皇の後裔(こうえい)である皇別(こうべつ)や、中国・朝鮮から渡来した諸氏の蕃別(ばんべつ)に対して、神代の諸神の後裔を神別(しんべつ)に分類した。宿禰(すくね)は3-5世紀頃の初期の大和朝廷において武人や行政官を表す称号として用いられ、5世紀以前には主として畿内地方の豪族が用いていたらしい。(ウィキペディア)
渡来系蘇我氏の台頭に伴い、天孫降臨以来の重鎮物部氏が中央政界から一掃されると、大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)を両輪とした官制が崩壊したが、蘇我氏の専横も長くは続かず、その後大臣の権限は左大臣と右大臣に分割された。
高天原系氏族の地位が渡来系氏族の台頭により脅威を受ける中、厩戸皇子は、大和朝廷内の和解を実現する救世主として双方の勢力から期待されていたものと見られる。
三頭政治
稲目の子で、崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は、用明天皇の皇后で、自身の姪に当たる額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を推古天皇(在位592-628)として即位させたが、推古天皇は、甥の厩戸皇子を太子兼摂政とした。
こうして大臣(おおおみ)蘇我馬子(41歳)、推古天皇(39歳)、摂政厩戸皇子(18歳)から成る三頭政治が実現した。
推古天皇や蘇我馬子は、飛鳥(奈良県明日香村)の朝廷で政務を処理したが、聖徳太子は斑鳩(いかるが、奈良県生駒郡斑鳩町)に住み、必要に応じて、20数キロの道のりを、愛馬黒駒(くろこま)に乗り、出仕していたようだ。
摂政として実質的に朝廷の運営を引き受けた聖徳太子は景教徒の秦河勝(はたかわかつ)を側近として用い、河勝を通じて全国に神社を建て、儒仏神三位一体の統治実現を目指した。
太子は、推古11年(603)冠位十二階を定め、翌年には、十七条憲法を制定。国史の編纂を行い、同15年(607)小野妹子を隋へ遣わし国交を開き、大陸文化の導入を図った。また『三経義疏』を著わし、『法隆寺』や『四王寺』を建立、仏教の振興に努めた。
篤く三宝を敬え
聖徳太子が発布した『十七条憲法』の第二条は『篤く三宝を敬え』と述べており、『日本書紀』は、「三宝とは仏・法・僧である。仏教はあらゆる生き物の最後のよりどころ、すべての国の究極のよりどころである」と説明している。しかし『先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)』には、「篤く三法を敬え。三法とは儒・仏・神である。すなわち、すべての民のよりどころ、すべての国の究極のよりどころである」と説明している。
日本書紀の編纂に際して聖徳太子関連部分を担当したのは、『道慈(どうじ?-744)』と言う僧だった。大山誠一名誉教授はその著『聖徳太子の誕生』において、「道慈は他宗教を毛嫌いし、特に儒教嫌いだったため、三法を三宝に書き換えたものと見られる」と述べている。
聖徳太子は607年に『敬神の詔』を発しており、基本的には神道に立ち、儒教・仏教・神道の融和を図ったものと見られる。
ちなみに秦氏が多く住んだ京都の太秦(うずまさ)に関して、早稲田大学の故伯好郎教授は「『うずまさ』はアラム語の『イェシュ・メシアッハ』から派生したもので、『イエス・メシア』を意味する」と述べている。久保氏によると、秦氏は同地に広隆寺を建てたが、それは仏教寺院ではなく、キリスト教的神道の礼拝所で、東方キリスト教会における三位一体のシンボルと同じ手の形をした弥勒像が安置されている。
日本古代史研究家東京女子大学の故平野邦雄(ひらのくにお1923-2014)名誉教授によると、朝鮮アカマツで彫られた広隆寺の弥勒菩薩像は、新羅から日本に伝来したものと見られる。日本書紀には、西暦603年に摂政の聖徳太子が彫像を受け取り、朝議に諮った上、秦氏の指導者秦河勝にあずけた。秦河勝はその後寺を建てて、彫像を安置したと記されている。これが公式に記録された広隆寺の起源である。しかし聖徳太子の時代の日本の仏教は、新羅のライバル百済の仏教によって完全に支配されていた。当時、蘇我氏と漢氏(あやし:百済移民)を後ろ盾にする日本国内の百済親派は、新羅に対抗し、百済を援助するため朝鮮半島の紛争に介入しようとしていた。新羅移民グループのリーダーの秦河勝と聖徳太子はこの計画に反対だったようだ。平野教授は、河勝の弥勒菩薩像の受け入れは、当時の政治状況を反映した象徴的な役割を果たした可能性があると指摘している。
聖徳太子の曾祖父で百済とも深いつながりを有した継体天皇は、百済と連合し、新羅と緊密な関係を有する北九州の豪族の頭領磐井(いわい)を滅ぼしたが、聖徳太子がその新羅から贈られた弥勒菩薩像を秦河勝に預けたのは、欽明天皇が百済から贈られた仏像を蘇我稲目に授けのに倣ったものと見られる。
聖徳太子の死と蘇我氏の陰謀説
推古29年(621年)12月聖徳太子の生母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が亡くなると、明けて正月22日から太子が病気になり、その看病に努めた妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が先ず逝去、翌日太子も亡くなった。
太子は、どうやら当時流行していた天然痘に罹り逝去されたようだ。しかし、看病していた妻の膳大郎女と太子が相次いで亡くなったことから、毒殺されたのではないかと言う陰謀説がささやかれた。
聖徳太子は、推古天皇に信頼され、大臣(おおおみ)の蘇我馬子とともに仏教の興隆に努め、朝鮮や中国との外交面でも大きな成果を上げた。
しかし、神道、仏教、儒教の三法を敬う聖徳太子の宗教政策や朝鮮半島政策を巡り、蘇我馬子との間に意見の相違が生じた可能性が有り、何よりも太子が進める天皇中心の国政運営は、蘇我氏の外戚としての地位を脅かしたものと見られる。加えて蘇我馬子には、崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺した前歴もあったことから、こうした陰謀説が生じたのだろう。
実際、聖徳太子亡き後、蘇我馬子は再び実権を握り、政治は天皇中心から蘇我氏中心に切り替わった。
極めつけは643年、蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿(そがのいるか)が、聖徳太子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を一族もろとも攻め滅ぼしたこと。
しかし、男系相続を根幹とした万世一系の天皇制があってこその外戚であり、そのことは、蘇我氏が一番よく理解していた。聖徳太子と蘇我氏により確立された万世一系の天皇制は、蘇我氏のあとを継いだ外戚の藤原氏、さらには鎌倉、室町、徳川幕府、そして明治、大正、昭和(おそらく戦後のGHQ)まで引き継がれた。
聖徳太子の妻たち
聖徳太子には4人の妻がいたが、うち3人は推古天皇の娘の菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)と孫の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)、そして一緒に政治を行なった豪族蘇我馬子(そがのうまこ)の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)で、もう一人は奈良の斑鳩(いかるが)を本拠地とする氏族(うじぞく)、膳氏(かしわでうじ)の娘の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)、別名、芹摘姫(せりつみひめ)。太子が斑鳩に赴いた折、芹を摘む少女に一目惚れしたのが馴れ初めと言う。
太子は晩年、斑鳩に通い詰め(いわゆる通い婚)、この妃との間だけで、8人の子を儲けた。聖徳太子は最愛の妻の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)、そして生母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后と共に、大阪府南河内郡太子町科長山(しながさん)叡福寺(えいふくじ)の境内の磯長陵(しながりょう)に葬られている。
太子と刀自古郎女の間に生まれた長男の山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、膳部菩岐々美郎女が産んだ異母妹の舂米女王(つきしねのひめみこ)を娶り、7人の子を儲けた。聖徳太子と、蘇我氏の血を強く引く山背大兄の一族は『上宮王家(じょうぐうおうけ)』として皇位継承を期待されたが、舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の擁立を図る蘇我入鹿(そが の いるか)と対立し、一族全員が自害し滅亡した。
天寿国曼陀羅
聖徳太子がなくなると、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)は、「世間は虚假(こけ)、唯だ仏のみ是れ真なり」と仰せられた太子は、天寿国に往生されたに違いないと考え、祖母の推古天皇に天寿国を描いた『天寿国曼陀羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)』を作成し、太子を偲ぶとともに、仏教を振興するよう提案した。
推古天皇はこの提案を奇特なことし、早速、東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)に原画の作成を、椋部秦久麻(くらべのはだのくま)に『天寿国曼陀羅繍帳』作成の総指揮を命じた。
古記録に基づく考証によれば、制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳(とばり)2枚を横につなげたものであったと推定されるが、現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦88.8センチメートル、横82.7センチメートルの額装仕立てとなっている。このほかに断片2点が別途保存されている。断片のみの現存であるが、飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、国宝に指定されている。
達磨大師との出会い
『日本書紀』によると、推古天皇21年12月庚午朔(613年)、太子が片岡山に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問うても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。
翌日、太子が従者にその人を見に行かせたところ、戻って来た従者は、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸(なきがら)をその場所に埋葬し、墓を固く封じさせた。数日後、太子は近習に、「あの人は普通の人ではない。真人にちがいない」と語り、従者に見に行かせた。従者が戻って来て、「棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、本当だ」と言って、ますます太子を畏敬した。
後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれ、飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立された。
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上記の逸話は、『新約聖書』の『イエスの遺体消失』や『荘子』大宗師篇第六の『真人』を想起させる。
イエズス会が17世紀に西安で発見した『大秦景教流行中国碑』の冒頭には、「さて、永遠の静寂の中に、先ず無元(はじめのない)の始源(しげん)があった、それは漆黒の霊虚(れいきょ)として存在したが、その後妙有(みょうう)が生じた。始玄(しげん)の創造神、諸聖を超えた、唯我独尊(ゆいがどくそん)、『三一妙身(さんいちみょうしん)』の真(まこと)の主(しゅ)アッツラーフ(阿羅訶歟)は、十字を観照(かんしょう)して四方を定め、始元を鼓して風を起こし二気(陰陽)を生じた」と述べ、西方キリスト教会の『三位一体』の教義を『三一妙身』と表現している。
イエスの双子の兄弟と称されるトマスが、インドや中国に伝えた『聖霊のバプテスマ』は当時両地に勃興していた大乗仏教や道教と融合し、浄土信仰や禅文化を開花させ、さらにはイスラム教の誕生にも寄与したようだ。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、右手の親指そして中指と薬指で円相を表し、人差し指と小指を立て、『太虚のように円かで欠けるところも余るところもない至道』の現成を目指した聖徳太子やイエスそしてムハンマドの願を表しているように見える。
聖徳太子が愛馬黒駒に跨り斑鳩の里を疾駆し、終に天寿国に昇天した頃、ムハンマドも天馬ブラークに乗りメッカの聖なるモスクからエルサレムのモスクに至り、そこから昇天したとされる。
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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