則天行地
モーセの召命
モーゼが神から受けた『出エジプト』の使命は、ユダヤ人を奴隷として虐げるファラオの庇護を受け育ったたことに対する良心の呵責と葛藤の中から辿り着いた結論と言える。
自らを育ててくれたファラオの娘の下を去り、ミディアンの祭司エトロの娘をめとったモーセは、舅のために荒野で羊の群れを追っていた。
モーセが神の山ホレブにさしかかると、燃える柴の中から神がモーセにこう呼びかけた。「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
私を私たらしめるものがこの世に私を遣わした
モーセは神に問うた。「わたしは一体何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしはあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
モーセはさらに問うた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされた』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
出エジプト記第三章14節のこの下りは英訳(New Living Translation)では次のように記されている。
God replied to Moses, "I Am Who I Am. Say this to the people of Israel: I Am has sent me to you.(神はモーセに答えられた。「私は私であるところのものだ。行ってイスラエルの民に告げよ、『私であるところのものが私をあなた方の下に私を使わした』と。」)
「『私が私であるところのもの』それが神だ」とモーセは結論づけたようだ。ヨハネ伝4章においてイエスは「God is spirit」と説いている。スピリットを日本語にすれば「魂」と表現できるだろう。「武士の魂」などと言うが、武士を武士たらしめるもの、人を人たらしめ、ある物をその物たらしめるもの、それが神である、「私を私たらしめるものが私をこの世に使わした」と、モーセやイエスは考えたのだろう。
まことの食べ物
イエスは「人はパンのみにて生きるものにあらず」と説いたが、では何にによって生きるのか、ヨハネ伝の同じ4章においてイエスはこう説いている。「私にはあなた方の知らないまことの食べ物がある。まことの食べ物とは、私を使わされた方の御心を行い、そのみわざを成就することである。」
「則天行地」こそイエスの教えの要と言えそうだ。儒教の主要経典四書中の一書、中庸には、「天の命これを性と謂い、性に率う(したがう)これを道と謂う、道を修めるこれを教と謂う」と説かれている。
しかしイエスがこの道理をファリサイ派やサドカイ派の指導者を含むイスラエルの人々に説いた時、誰一人理解するものがなかった。このためイエスは終に神と人との媒介者、神の子羊として、洗礼者ヨハネの予言通り十字架にかかる覚悟を決めたものと見られる。
イエスはヨハネ伝6章において「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」、「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲むものは、私の中に宿り、私もその人の中にやどるであろう」、「私を食べるものは、私が父によって生きているように、私を食べるものも私によって生きるだろう」と説いている。
神を信じるとは、イエスの肉を食らい、その血をすすり、神と一体のイエスを自分の内に宿し、イエスの内に自分が宿ること。神と自分がイエスを通じて一体になること、イエスはそう説いているのである。
青銅の蛇
さて砂漠でパンも水もなく、加えて毒蛇の被害に遭い仲間が次々に命を落とす中で、エジプトを脱出したユダヤ人は、前進する気力を失ってしまった。この時モーセは「最早エジプトに戻ることはできず、砂漠にとどまることもできない。譬え飢え死にするものや蛇にかまれて死ぬものが続出しても、何人かが約束の地に到達できるならユダヤ民族は存続でき、自分も使命を果たすことができる」と考えた。しかし意気消沈したユダヤ人を奮い立たせるものが必要だった。それは何でもよかったが、モーセは手近にあった青銅製の蛇を竿の端に括り付け高く掲げると、「譬え蛇にかまれてもこの青銅の蛇を見つめさえすれば、決して死ぬことはない。神がそうおうされた。信じて進め」と号令した。
イエスはファリサイ派の指導者ニコデモに対し、私の務めはあの青銅の蛇になることだと説いている。(回光庵返照居士:2008/03/10)
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。(キリスト教の起源p.155)
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