イエスは、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネ6:63)と述べ、本来言葉や文字では表現できない聖霊(ホーリー・スピリット)、神そのもの、を伝えた。すなわち聖霊のバプテスマである。
トマス福音書によれば、『光の子ら』あるいは『父の子ら』としての本来の自己の認識(トマス3/50)が御国の現成であり、『聖霊のバプテスマ』の真髄である。
莫妄想
中国の唐代に莫妄想(ばくもうそう)を一枚看板に、一世を風靡した禅僧がいた。彼は弟子たちから質問を受けるたびに、「妄想する莫れ(莫妄想)」と答えた。晩年、第15代穆宗(ぼくそう)皇帝(在位820-824)の勅命を受け山西省汾州の開元寺に住したことから、汾州無業禅師(ぶんしゅうむごうぜんじ)と称された。
この男は9歳のとき、開元寺の志本禅師から大乗経を授かり、五行を余すところなく諳(そら)んじ、12歳で剃髪、20歳の時、襄州(じょうしゅう)の幽律師(ゆうりっし)の下で受戒、『四分律疏(しぶんりっしょ):律蔵の解説書』を習い、僧侶らに涅槃経を講じたと言うから、仏教学に通じた秀才だったものと見られる。
当時、馬祖道一(ばそ・どういつ:709-788)禅師が、江西省洪州の開元寺を拠点に『即心是仏(そくしんぜぶつ)』、『平常心是道(びょうじょうしん、これみち)』、『作用即性(さゆうそくしょう)』等と説き、経典や観心よりも日常生活そのものを重視する大機大用の禅風を発揚していたため、無業青年も、馬祖道一禅師を尋ねることにした。
青年の巍々(ぎぎ)たる相貌を見、梵鐘のような声音(こわね)を耳にした馬祖は、「仏殿は立派だが、中に仏が居らんな」と言った。
無業青年は跪(ひざまず)いて、「声聞・縁覚・菩薩三乘の文献を学び、禅宗の『即心是佛』の教えを耳にしたものの、まだ理解できません」と、正直に質問した。
すると、馬祖は「君が『まだ理解できない』と言ったところがそれだよ。他に何もありゃせん」と答えた。
そこで、青年は「達磨大師が西来(さいらい)し、蜜伝した心印とはどんなものですか」と重ねて尋ねた。
馬祖は、「大徳君、あんた、ちょっとウルサイ(煩い)ね。今日のところは、このくらいで出直しなさい。」と言った。
青年がやおら立ち去ろうとすると、馬祖は、つっけんどんに大音声で「オイ、大徳」と呼び捨て、青年が振り返ると、「何じゃい」とどなった。青年がハッと気づき、礼拝すると、馬祖は「何だ今頃、鈍根め。」と詰(なじ)った。
[雲居(うんご)禅師、錫(しゃく)を拈(ねん)じていわく、汾州のどこが煩(うるさ)いと言うのか。](景徳伝灯録巻28)
曹洞宗の開祖洞山良价(とうざん・りょうかい:807-869)禅師の一番弟子と言われる雲居道膺(うんご・どうよう:830-902)禅師は、この商量に参じる学人に、錫杖をしごきながら、「汾州無業のどこが煩(うるさ)いか、さあ、言ってみろ」と気合を入れたと言う。
作用即性(さゆうそくしょう)
古来、無業禅師開悟の因縁は、『作用即性(さゆうそくしょう)』の公案として用いられているようだ。『作用』とは、『動作』の意で、『人間の営み』/『人間が生きていることそのもの』が仏性(ぶっしょう)と言うこと。
馬祖禅の特徴は、大機大用の禅風を理念として理解させるのでなく、問答を通じて、各人に、我が身の上の活きた事実として実感させるところにあった。彼はこの道理を『作用即性』と称した。
駒澤大學の小川隆教授によると、唐代の問答は、修行生活のなかで自然に起る、偶発的な一回性のものであった。それが宋代になると、先人の問答の記録が禅門共有の古典として選択・編集され、それが修行の課題として修行僧に与えられるようになったのである。そのように使われるようになった先人の問答の記録を『公案』という。
宋代には、教材としての、また教授法としての公案の規格化が進んだ。『公案』参究の方法は、大まかに『文字禅(もんじぜん)』と『看話禅(かんなぜん)』の二つに分けて考えることができる。『文字禅』は、古典詩文の素養を駆使しながら、公案に寸評をつけたり、公案の趣旨を詩に詠んだり、散文で論評を加えたりすることによって、禅を明らかにしようとするもの。いっぽう『看話禅』は『話頭(わとう)』すなわち公案を『看る』禅ということだが、具体的には、一つの公案に全身全霊を集中しつづけて意識を限界まで追い詰め、その極点で爆発的な心の撃破を起こして絶対的な大悟の実体験を得る、というものである。(駒澤大學禪硏究所年報第32號`に掲載された小川隆教授の論文『唐代禅から宋代禅へ─馬祖と大慧』より抜粋。2020 年 12 月)
公案の起源
では、なぜ、禅門の先人達の問答の記録が、公案(裁判案件)と呼ばれるようになったのか。これには、景教が説く『終わりの日=最後の審判』の教理が深く関わっているものとみられる。
≪ヨハネ福音書≫のイエスは、第15章26節において『わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう』と説いているが、この『助け主』のギリシア語パラクレートス(パラクリトス:‘ο Παρακλητος)の訳語として、欽定訳聖書(KJV)は『Comforter(慰安者)』、新国際版聖書(NIV)は『Counselor(相談相手)』、ニュー・リビング訳聖書(NLT)は『Advocate(唱道者)』を用いている。訳者の苦労のほどが窺える。
ヨハネ福音書の著者がここで、参照したQ資料の原文は、トマス福音書88節の以下の記述と見られる。「イエスが言った、『御使いたちと予言者たちがあなたがたのもとに来る。そしてかれらは、あなたがたに、あなたがたに属するものを与えるであろう。そしてあなたがたもまた彼らに、あなたがたの手中にあるものを与える。そして、あなたがたは、自らに、どの日に、彼らが来て、彼らのものを受けるかを言う(トマス88)。』」
つまり真理の御霊があなた方に施すバプテスマは、本来あなた方のものをあなた方に与えるのであり、バプテスマをいつ受けるかもあなた方自身にかかっていると言うのである。聖霊のバプテスマとは、太初において神と一体であった自己に目覚めることに他ならないのだから。
大秦景教流行中国碑
インドの菩提達磨により南北朝時代(439-589)に中国に伝えられた禅宗は、ちょうど同じころ中国に浸透したネストリウス派キリスト教と融合し、唐代(618-907)に入って爆発的に興隆したものと見られる。
イエズス会が17世紀に西安で発見した『大秦景教流行中国碑』には、西暦635年にオロペン(Alopen阿羅本:アブラハムの意)が21人の景教徒を率いて中国に赴き唐の太宗皇帝に拝謁、漢訳聖書を献上、中国における布教を正式に許可されたことが記されている。しかしこれは公式の記録で、それ以前から景教徒は中国で布教していたものと見られる。
日本真言密教の開祖空海は804年に遣唐使に加わり中国に渡り、805年に長安の西明寺に入る。その後、青竜寺の真言宗第七祖恵果(745-805)に真言密教を学び、真言宗第八祖の地位を認められた。空海は景教碑碑文の作者景浄の友人でカシミール出身の般若三蔵からサンスクリットを学んだ。したがって空海は、景浄や当時長安で活躍していた伊斯(イサク)等の景教徒とも親交をもったものと見られる。このため和歌山県の高野山には景教研究家エリザベス・アンナ・ゴードン女史(1851–1925)が、贈呈した景教碑のレプリカが存在する。
また京都西本願寺所蔵『世尊布施論』第三巻の内容は、景教徒が著した漢訳『マタイ福音書』の山上の垂訓にほぼ一致しており、アダムの誕生物語の一部も掲載されている。
したがって、イエスの双子の兄弟と称されるトマスが、インドや中国に伝えた『聖霊のバプテスマ』は当時両地に勃興していた大乗仏教や道教と融合し、浄土信仰や禅文化を開花させ、さらにはイスラム教の誕生にも寄与したと言える。
ちなみに『景徳伝灯録巻第二十八』の冒頭には、『陝西省商州市上洛の李氏家の少女は、ある晩、空中で「そこにいてもいいか」と尋ねる声を聞き、自分が妊娠したことを知った。十月十日(とつきとうか)を経ると、産屋(うぶや)は神聖な光で満たされ、少女は一人の男児(おとこのこ)を産み落とした。俗姓を杜氏(とし)と言うこの男児は、這い這いできるようになると(俯及丱歳ふきゅうかんさい)、はやくも結跏趺坐して観想(直视坐即跏趺)した。』と言う新約聖書の『受胎告知』を想起させる序説がついている。
六祖の襲名
唐の高宗の上元三年、西暦676年、正月十五日、中国広東省広州の法性寺において一人の青年の剃髪式が行われた。翌月二月八日には、西安の智光律師、蘇州の慧静律師、荆州の通応律師、中天竺の耆多羅律師、西域の密多三蔵法師を、それぞれ授戒師、羯磨(karma)師(夏安居終わりの反省会≪羯磨≫の司会を務める上座を羯磨師と言う)、教授師、説戒師、証戒師として招請、盛大な授戒式が執り行われた。こうして達磨が中国に禅宗を伝えて以来、六代目に当たる六祖恵能禅師が誕生した。
二人の三蔵法師の預言の成就
これを去ること256年前、魏晋南北朝時代の宋(南朝)の武帝の時(西暦420年)、天竺の求那祓陀羅三蔵法師(394-468)がこの地に戒壇を築いた際、「将来、肉身の菩薩がこの戒壇で具足戒を受けるであろう」と述べ、また174年前、梁の武帝の天監元年(西暦502年)に、天竺の智薬三蔵法師がこの地に菩提樹の苗木を植えた際、「170年後、肉身の菩薩が現れ、この菩提樹の下で説法し、無量の衆生を済度するであろう。この方こそ仏心印法を伝える救世主である」と述べられた。恵能の剃髪受戒は、両三蔵法師の預言の成就であり、寺の境内に建てられた七重の塔には、一千有余年を経た今日も、恵能の髪が収められていると言う。
恵能は、この時まで広州市で柴売りを生業とする一介の青年(39歳、中年?)に過ぎなかったが、並み居る高僧を押しのけ、突如、中国禅宗六代目の祖師の座に就いた。このため、この剃髪受戒式は、ナザレの大工の子イエスが、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受け(マルコ1:9/マタイ3:13)、ベタニアおけるヨハネの証言を通じてイスラエル宗教界にデビューしたのと同様、中国仏教史に一時代を画する象徴的事件とされる。当時イエスも30代半ばだったようだ。(ルカ3:23)
ちなみに、ナザレの大工の子イエスの受難は、ダビデとアロン双方の血筋を引く小ヤコブの指導下に、異邦人の教会運動と国内ユダヤ教各派を統合するエルサレム教会を創設するために、大祭司、王族、ローマ総督を含む各方面により周到に計画されたものと見られる。そのことは過ぎ越の祭りの前日、正味1日半の間に大祭司、ローマ総督、国王による取り調べや裁判を全て終え、日暮れ前に処刑と埋葬を完了させたことや、処刑から僅か1ヶ月半後に、大祭司カイアファの屋敷に隣接したエッセネ派の集会所で、原始キリスト教団が発足し、その日だけで異邦人を含む3000人が教団に加わったこと(使徒2:1-41)からも窺える。こうしてエルサレム教会の初代総監(Bishop)には、小ヤコブが就任したが、ローマ教会の初代教皇には、小ヤコブでもパウロでもない、ガリラヤの漁師の子ペテロが列せられた。ちなみにテレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によると、ガリラヤの先住民のイトゥレヤ人はイシマイルの子孫(アラブ民族)と言われ、ハスモン朝時代にユダヤ教に集団改宗させられた。そんなこともあってか、イエスの弟子は、ファリサイ派のみならず洗礼者ヨハネの弟子からまで、その振る舞いを咎められるほど、ユダヤ教の戒律`や規則に疎かったと言う。
祖師の西来
景徳伝灯録(初版1004年)によると、南インドの異見王(達磨の甥)の時代に海路中国に赴き、梁の普通8年、西暦527年に、広州に上陸、同年10月1日、梁の武帝(当時64歳)と対面した時、達磨はすでに150歳だった。
武帝が『仏法を奉じる功徳』を問うと、達磨は、『無功徳』と答え、『仏法の真諦(聖諦第一義)』は何かと言う問いには、あっさり『そんなものはない(廓然無聖)』と言い捨て、さっさと揚子江を渡り魏に赴いた。
伝承によると、その後、達磨は嵩山少林寺(河南省鄭州市登封)に籠もり、面壁九年、慧可、道育、総持(比丘尼)、道副等に法を伝えた後、160歳余で遷化したとされる。北魏の政変に巻き込まれた(河陰の集団処刑)と言う説や毒殺されたと言う説もある。
胡皇太后が実の子の孝明帝を毒殺し、元剣を皇帝に擁立すると、爾朱栄将軍はこれを認めず、胡皇太后を打倒し、孝荘帝を即位させた。爾朱栄将軍は胡皇太后とその宮廷官員を洛陽近郊の河陰に集合させ、虐殺した。その数は2000人以上にのぼったと言う。
≪歴代法宝記≫等の記録によると、達磨は9年間に6度毒殺を図られた。達磨は、慧可を後継者に指名した後、中国における布教の任が完了したと悟り、6度目の毒殺を試みられた際、従容として世を去ったと言う。この伝承には奇妙な点がある。達磨を嫉妬して毒殺を図ったとされる菩提流支と光統律師(慧光)は、何れも当時の著名な高僧である。菩提流支は北インド出身の大乗瑜伽仏教学者で、経典の翻訳に従事していた。慧光は少林寺の跋陀尊者の下で小乗禅法、律宗、華厳宗等の奥義を極め、多数の弟子を輩出した。それに引き替え達磨は少林寺付属の洞(ほこら)で面壁九年、僅か数人にその法を伝えたに過ぎない。高名な二人が無名な達磨を嫉妬する謂われは希薄で、加えて達磨は毒入りを承知で二人が供する山菜料理を食べていた節が見られる。二人は、山菜料理に含める毒の量を徐々に増やし、達磨はその度に吐き出し、その毒気で岩が変色したと言う。三人はひょっとすると協力してアーユルベーダ(Ayurveda)/ユナニー(Unani)/ホメオパシー(Homoeo:同毒療法)/シッダ(Siddha)等のインドの伝統的医学と漢方医学を結合した新しい治療法の開発に取り組んでいたのかも知れない。
いずれにしても150歳の老翁がはるばるインドから海路南中国の広州にわたりさらに直線距離で1200キロ以上を旅して中原洛陽郊外の嵩山に赴いたと言う伝承を鵜呑みにすることはできない。最近になって、敦煌の遺跡から達磨の著作と称される≪二入四行論≫と多くの共通点を有する仏典が発見されたことから、今日では達磨は、どうやら海路ではなく陸路中国に赴いたのではないかと言う説が有力視されていると言う。
主要な中国文献の一つ、洛陽伽藍記は、達磨を西域出身のペルシア人としている。一般に中央アジアを指す西域にインド亜太陸が含まれる可能性も否定できないが、禅宗文献の中で、達磨は、しばしば碧眼の胡僧と称されており、達磨がインド人であったなら、碧眼の天竺僧と呼ばれたはずである。
一方、インドの伝承によれば、タミールナド州カンチプラム出身のパッラヴァ王朝第三王子の達磨は、浅黒い肌のドラビダ人であったと言う。曇林(506–574)も≪二入四行論≫序文において、達磨を偉大なインド王の第三王子と紹介している。インド・ブバネーシュワルのユトカル大学物理学部および物理研究所のサマール・アッバス博士によると、西暦275~897年に南インドの一部を支配したパッラヴァ王朝は、イランを起源とし、ペルシアのパルティアあるいはパフラヴァの系列に属していたようだ。
武則天の仏教振興策
則天武后は、宮廷における劣勢を挽回する狙いから、身分に関わりなく、と言うより、むしろ身分の低い優秀な人材を登用すると同時に、老子の末裔を自負する李氏宮廷における『道先仏後』の優先順位を『仏先道後』に改め、仏教の振興に努めた。
南頓北漸二派を統合する中国禅宗の第六祖に広州市の一介の柴売り青年が就任した背後にも、あるいは則天武后の意向が働いていたのかも知れない。恵能の兄弟子で、やはり五祖弘忍の法を嗣ぎ北宗禅の開祖として則天武后の帰依を受けた玉泉神秀(606?-706)は、「弘忍の正嫡は恵能である」とし、恵能の講義を聴くよう中宗(高宗と武則天の子)に上奏したが、恵能は神秀の再三の説得にも関わらず病を理由に上京しなかったとされる。ちなみに、ちょうどこの頃、西域康国(ソグディアナ)人の法蔵(643–712)は勅命により出家した後、華厳宗の第三祖に就任、武后の宮廷で華厳哲学を講義している。
もう一つ補足すれば、中国禅宗の祖は、六祖までで、七祖や八祖は、存在しない。六祖以後、中国禅宗は、南頓北漸二派のみならず、五家七宗が並び立ち、爆発的成長を遂げた。このため最早、絶大な権勢を誇る唐皇帝の力をもってしても第七祖を襲名させることは不可能になったものと見られる。
南頓北漸の起源
恐らく、魏晋南北朝時代に複数の先達により陸路と海路を通じて中国に伝えられた禅宗は、北朝が支配する中原では、≪二入四行論≫が説く『行』を重んじる漸進的な教禅一味の宗風を、南朝が支配する南中国では、頓悟を重んじる不立文字・教外別伝の宗風をそれぞれ開花させたが、後世になって、中国禅宗史の第一ページを飾るスペクタクルとして、南朝きっての仏教庇護者梁の武帝と達磨の対決が、アレンジされたものと見られる。
異民族の王朝が興亡した中原では、そ時々の政権によりしばしば廃仏毀釈政策が打ち出されたこともあって、始祖達磨、二祖慧可、三祖僧璨、四祖道信(580-651)の時代までは、さしたる発展は見られなかったが、唐王朝により中国全土が統一され、取り分け高宗の皇后武則天が実権を掌握した頃には、五祖弘忍(601-675)の下で中原においても禅宗が急成長を遂げた。
処女降誕
ちなみに、五祖弘忍の俗姓は周氏とされるが、これは母の姓で、父親は不詳。伝説によれば、母の体内に宿った破頭山の仙人の生まれ変わりと言う。
四祖道信が湖北省黄梅県の破頭山に住み着くと、同山の主の仙人も弟子入りを願い出た。これに対して道信は「齢百歳を超えた仙人を弟子にする訳には行かないが、生まれ変わって弟子入りしたいと言うなら入門を許そう」と答えた。がっかりした仙人が山を下って里に出ると一人の娘が小川で洗濯をしていた。そこで仙人は、「生まれ変わって出直せば、弟子入りを許す」と言う道信の言葉を思い出し、早速その娘に「宿を借りたい」と尋ねた。娘が「ぼろ家で宜しければどうぞ」と答えると、仙人はチャッカリ娘の腹に潜り込んでしまった。娘の腹が大きくなると、家族は不埒なことをしでかした娘を家から追い出した。
娘は月満ちて男の子を産んだが、人々は母親と一緒に乞食をして回るこの子を無姓児(むしょうに)と呼んだ。黄梅県の街角で七歳になったこの無姓児と出会った道信が、名を尋ねると「俺の名は仏性だ」と答えた。道信はこの子に惚れ込み、破頭山の仙人の生まれ変わりとはつゆ知らず母親からもらい受け、黄梅山東山寺で出家させた。この無姓児こそ後の五祖弘忍と言う。
この説話はイエスの処女降誕を彷彿とさせるが、福音書作家マルコがマリア・サロメ(最後の晩餐が行われた家の家主)との間に生まれたイエスの実子の可能性が疑われるように、弘忍も道信の実子だったのではなかろうか。
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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