禅宗と景教(廓然無聖)
<スライドショー:廓然無聖>
イエスの『聖霊のバプテスマ』は、霊的再生を通じて神人一如の世界の具現を目指すものだが、達磨(だるま)は、文字や経典等の手段を用いず、人の心を指して直ちに、仏性に目覚めさせる心印を中国に伝えた(直指人心、見性成仏)。今回はイエスの『聖霊のバプテスマ』と達磨の『心印』に参じて見ましょう。
廓然無聖
禅宗の開祖とされる菩提達磨(ぼだいだるま、bodhidharma)は、南インド香至国の異見王(いけんおう、達磨の甥)の時代に海路中国に赴き、梁の普通8年、西暦527年に、広州に上陸、同年10月1日、梁の武帝と対面した。この時、武帝は64歳、達磨はすでに150歳だった。(景徳伝灯録)
武帝が「自分は多くの寺院を建立し、仏法を宣揚しているが、どんな功徳が得られるだろうか」と問うと、達磨はそっけなく『無功徳』と答えた。
そこで武帝が、「それでは仏法の最も重要な教理『聖諦第一義(しょうだいだいいちぎ』は何か」と尋ねると、「廓然無聖(かくねんむしょう)、スッカラカンでホーリーのホの字も無い」と、にべもない返事をし、ささと揚子江を渡り北方に旅立った。
その後、達磨は、河南省に位置する嵩山の少林寺(鄭州市登封)に付属する祠(ほこら)に籠もり、面壁九年、慧可、道育、総持(比丘尼)、道副等に法を伝えた後、160歳余で遷化したとされる。北魏の政変に遭遇、『河陰の集団処刑』に巻き込まれたと言う説や毒殺されたと言う説もある。
南頓北漸
いずれにしても150歳の老翁がはるばるインドから海路南中国の広州にわたり、さらに直線距離で1200キロ以上を旅して中原洛陽郊外の嵩山に赴いたと言う伝承を鵜呑みにすることはできない。
最近になって、敦煌の遺跡から達磨の著作と称される≪二入四行論≫と多くの共通点を有する仏典が発見されたことから、今日では達磨は、どうやら海路ではなく陸路中国に赴いたのではないかと言う説が有力視されていると言う。
恐らく、魏晋南北朝時代に複数の先達により陸路と海路を通じて中国に伝えられた禅宗は、北朝が支配する中原では、≪二入四行論≫が説く『行』を重んじる漸進的な教禅一味の宗風を、南朝が支配する南中国では、頓悟を重んじる不立文字・教外別伝の宗風をそれぞれ開花させたが、後世になって、中国禅宗史の第一ページを飾るスペクタクルとして、南朝きっての仏教庇護者、梁の武帝と達磨の対決が、アレンジされたものと見られる。
祖師西来意
それにしても仏法に功徳が無く、廓然無聖と言うなら、一体なんのために達磨は大海をわたり、数千キロも旅して中国にやって来たのかと言う疑問が生じる。
そんなことから、禅門の語録集には、『碧巌録』第一則の『廓然無聖』の公案とともに、達磨が中国にやって来た目的は一体何かを問う『祖師西来意(そしさいらいい)』の公案が、師家と学人の商量の題材として最も多く取り上げられている。
自救不了
臨済宗の開祖、臨済義玄禅師に一人の僧が、「祖師西来の意(目的)は何か」と質問した。すると義玄禅師は「もし何か意図が有って西来したのなら、祖師は『自救不了(じぐふりょう)』だ」、つまり「自分独り救うこともできない」と答えた。そこで、その僧は「もし祖師に意図するものが無かったなら、二祖の慧可大師は、どうして仏法を会得することができたのか」と反問した。義玄禅師は「『得(とく)』とは『不得(ふとく)』と言うことだ」と、意味不明の説明をした。そこで、その僧は、「それでは『不得』の意味は何か」とさらに問うた。義玄禅師は「お前の求道の心が性急で、至る所に問いかけるからだ。祖師も『馬鹿め、頭を巡らし、自分の頭を探すようなものだ。』と戒めている。回光返照(えこうへんしょう)して、さらに別に求めず、身心の祖仏と別ならざるを知るなら、即今ただ今極楽往生できるではないか。『得法(とくほう)』とは、そう言うことだ。」と答えた。
臨済悟道の因縁
上述の通り『臨済録』の中で、義玄禅師は、禅僧にしては珍しく、懇切丁寧に説明しているが、それには理由があった。
義玄禅師自身、師匠の黄檗希運(おうばくきうん?-855)禅師に初めて入室参禅(にっしつさんぜん)した際、やはり、この質問をしたが、黄檗禅師は、有無を言わさず手杖(しゅじょう)でぶん殴った。義玄禅師は、3回入室したが、3度とも同様の仕打ちを受け、とうとう黄檗山を逃げ出した。大愚(たいぐ)和尚から黄檗禅師の老婆心を説き聞かされた義玄禅師は、「仏法など、元来大したことはない」と大口をたたき、黄檗山に舞い戻るや、希運禅師に一手を食らわし、恩返したと言う。(景徳伝灯録)
庭前の柏樹子
唐代末期、河北省趙州の観音院に住した趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師(778-897年)に、一人の僧がやはり「達磨大師がはるばる中国にやって来た目的は 何か」と尋ねた。趙州和尚は庭先の柏槙(びゃくしん)の木に目を向けると「そこだ、そこだ」と答えた。しかし僧は満足せず、「和尚、境(きょう)をもって示すなかれ」と詰(なじ)った。趙州は「俺は境など示していないぞ」と応じた。そこで僧は、「祖師が中国にやってきた目的は何か」と重ねて問うた。すると趙州和尚はまた「庭前の柏樹子(はくじゅし)」と答えた。
キリストとニコデマス
イエスの『聖霊のバプテスマ』は、霊的再生を通じて神人一如の世界の具現を目指すものだが、過ぎ越の祭りにエルサレムにのぼり(ヨハネ2:12-13)、神殿の商人を追い払った直後、最高法院のファリサイ派議員、ニコデモに対して「真理によって生きるものは光の下に来る。それは彼の行いは全て神を通じてなされていることを明らかにするためである」(ヨハネ3:21)と語ったイエスは、直ちにユダ郊外に赴き、聖霊のバプテスマを施す活動に乗り出した(ヨハネ3:22)。
趙州の答處(スピリット)
《無門関》と言う公案録を遺した宋代の禅僧、無門慧開(むもんえかい)和尚(1182-1260)は、『庭前の柏樹子』の公案に「もし趙州和尚の答處(たっしょ:スピリット)を体得するなら、釈迦もなく、弥勒もない」とコメントしている。
釈迦が菩提樹の下で、天上天下唯我独尊と証見した境地からすれば、彼我の別はなく、草木国土は皆成仏しており、庭前の柏樹子も机上のゴキブリも、乾屎橛(かんしけつ:くそかきべら/トイレットペーパー)も祖師西来意である。
戦前戦後を通じて活躍した昭和を代表する日本曹洞宗の師家、澤木興道老師は、「生死を仏道に変えるのが坐禅、『一超直入如来地』だ。坐禅は三界の法じゃない、仏祖の法だ。仏法は仏と仏の商量、仏と凡夫の商量じゃない。だから唯仏与仏乃能究尽(ゆいぶつよぶつないのうくじん)と言う。仏と仏が相思い、正身端座(しょうしんたんざ)する時、現成(げんじょう)するものだ」と述べ、「回光返照を忘れて公案をひねくり回すのは、鼻の頭に糞をつけて屁元はどこだと探し回るようなもの」と、学人を激励したと言う。
- 禅宗と景教≪聖霊のバプテスマ、達磨の心印≫○祖師の西来-
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『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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