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書評:禅宗と景教(命の泉)


<スライドショー:命の泉>

イエスの双子の兄弟と称される十二使徒の一人、ディディモ・ユダ・トマスにより、東方世界に伝えられたネストリウス派キリスト教は、中国では、景教と呼ばれ、当時勃興していた大乗仏教や道教と融合し、浄土信仰や禅文化を開花させ、さらにはイスラム教の誕生にも寄与したものと見られる。
そこで、中国における禅宗興隆の起爆剤になったネストリウス派キリスト教に注目し、新書『禅宗と景教』を著した次第である。福音書や使徒行伝、パウロ書簡の内容を古則公案と対照することにより、読者とともにイエスが我々に提示した現成公案に参じて見よう。
ちなみに禅宗の師家が禅堂で学人に与える課題を『公案』と言い、公案録に記録されている先人の『禅問答』を『古則公案』、人々が現世で直面する問題を『現成公案』と言う。


誰もその中に入らないのは何故か?

 彼が言った、「主よ、泉のまわりには多くの人々がおりますが、泉の中には誰もおりません」(トマス74)。
日本語版『トマスによる福音書』の著者荒井献氏によると、『泉』とは、それから飲めばイエスのようになることを約束された『命の泉』、本来的自己の象徴で、『御国』を指している。古代キリスト教最大の神学者とされるアレクサンドリアのオリゲネス(182?-251)も、『ケルソス反駁』において、「多くの人々が泉のまわりにいるのに、誰もその中に入らないのは何故か?」と問うている。
花嫁の部屋
荒井氏によれば、トマス福音書74節は、75節と対句だった可能性がある。
 イエスが言った、「多くの人々が戸口に立っている、しかし、花嫁の部屋に入るであろう者は、単独者だけである」(トマス75)。

荒井氏によると、『花嫁の部屋』の原語『ニュンフォーン』は文字通りには『結婚の場所』で、分離した男女が知恵(グノーシス)により原初的統合を回復する『聖なる結婚』の秘儀の場所とされ、ピリポ福音書の五つの典礼では最高の地位を与えられている。男と女が一人、すなわち『単独者』として入ることが約束されている『御国』の象徴である。『単独者』とは、『分裂を超えて、原初的統合(propator = original Self)を自己の内に回復する者』を意味し、この本来の自己による支配の実現が『御国』の現成を意味する。トマス福音書では『単独者』と言う句がキーワードとして繰り返し使用されている。
唯仏与仏

インド各地で四十余年にわたり説法を続けた後、釈迦は、十大弟子の一人舎利仏(しゃりほつ)に、「舎利仏よ、この世の諸現象を貫通する真理、つまり実相は、仏のみが理解でき、凡夫には到底理解できない。ただ仏が仏に与え(唯仏与仏)、究尽(くじん)すべきものである。舎利仏よ、凡夫に対して説明するのは無駄である。しかし自分は今、菩薩の中にあって、正直に方便を捨て、無上道を説こう(法華経方便品第二)」と述べ、無上の教え『法華経』を説かれた。
仏の究極の教えを理解できるのは仏だけであり、命の泉から飲むことができるのは、イエスと和合して単独者になることができる者だけである。多くの大衆が教会に集っても、泉に入る者がいないのは驚くに当たらない。
- 禅宗と景教≪トマス福音書≫と現成公案[15]至道無難、唯嫌揀択 -
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マルタとマリアの物語

 さてみなが旅をつづけるうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が家にお迎えした。マルタにマリアという姉妹があった。マリアは主の足もとに座ってお話を聞いていた。すると接待で忙しく立ち働いていたマルタは、すすみ寄って言った、「主よ、姉妹がわたしだけに接待させているのを、黙って御覧になっているのですか。手伝うように言いつけてください」。主が答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を配り、心をつかっているが、無くてはならないものはただ一つである。マリアは善い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)
マルタとマリア二人の在り方は異なっており、マリアはイエスの足元にじっと坐って沈黙のうちにその言葉に耳を傾け、聞き入っている。マルタは、立ち上がり、イエスから離れ、イエスをもてなすために働いている。加えて、マルタは神の子であるイエスに直接言葉をもって問いかけ、一つの要求をする。マルタに対するイエスの言葉ははっきりと記されているが、マリアに対するイエスの言葉は一つも記されていない。
この聖書の箇所は、通常、『なくてはならぬ唯一つのもの』のために一切を放擲して主のみもとに座し御言(みことば)に聞き入っているマリアの在り方のほうがイエスによって義認されていると解釈される。
しかし中世ドイツ(神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者で、神秘主義者のマイスター・エックハルトは、「マルタはその生活の中の立ち働きにおいて観想を忘れてはおらず、むしろマリア以上に神の認識において成熟している」と説き、解釈を逆転させた。「離脱(Abegescheidenheit)・放下(Gelassenheit)」攷(二十八)https://blog.goo.ne.jp/kmomoji1010/e/5d753b1f9be8cd843bc4c68d0a594962
御言葉の誕生

神学者の桑原直己筑波大学名誉教授(1954-)によると、中世の神秘主義者エックハルトは、人間は自己を無化する『放下(Gelassenheit)』を通じ、あらゆる被造物の有限性を突破することにより、神と一致することができるとし、人間と神とのこの一致を『魂の根底における御言葉(=神の子・キリスト)の誕生』と述べている。(「婚姻神秘主義」と「本質神秘主義」https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/40985/files/SP_42_118.pdf)
そこで次回は、ご一緒に禅宗の『放下』と、エックハルト/ハイデガーの『放下(Gelassenheit)』に参じて見ましょう。
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か

ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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