再活現成
迎えず送らず
中国宋朝(960-1279)の文人政治家蘇東坡(1037-1101)は、太守として杭州に左遷された際、龍井寺に弁才禅師を訪ねた。弁才は新任の太守に自分から挨拶に出向かなかった非礼を詫び「この寺には長年にわ たり『迎えず送らず』と言う規範があり、老僧もこの規範を改めず遵守しております。どうぞご理解いただきたい」と語った。
煩悩の苦海を潜って慈悲を知る
東坡は大笑し、「私が和尚を訪ねたのは、あなたの道行(どうぎょう)を拝するためであり、あなたの送迎を受けるためではない。ところで和尚は厳しく戒律を守られていると言われるが、如何なる戒、如何なる律法を守られているのか」と尋ねた。
弁才は眉をよせ「戒すべきは戒心の一事、律すべきも律心の一事、この他に何がありましょうか」と答えた。
東坡はすかさず「活発に躍動するのが心であり、何を戒め何を律しようというのか。たとえ時空を貫通するような比類のない縄でこの心を縛ったところで、かえって心を扼殺してしまうだけではないか」と反問した。
弁才は大きく頷き、東坡を指さすと「大死一番し蘇生したもののみが、無尽の煩悩を解脱し、心の大自在を得ることができる」と語った。
心の自由闊達は良いことだがが、慈悲がなければ、他人のことなどどうでもよい独りよがりに陥ってしまう。無尽の煩悩の苦海に一度没して浮かび上がってこそ、悲慧兼ね備えた真の悟り(煩悩即菩提)が開ける。弁才禅師はそう説かれたものと思われる。
カナンの女
イエスがゲネサレを出てツロとシドン地方に行かれた時、カナン人の女が、「主よ、ダビデの子よ、憐れみをかけて下さい。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と叫び追いかけて来た。しかしイエスは一言も答えようとしなかった。見かねた弟子が「女が泣きながらついて来ます。説き聞かせて立ち去らせて下さい」と言うと、イエスは「私はイスラエルの失われた羊以外のもののために使わされたのではない」と述べ、見向きもしなかった。
女はとうとうイエスの前に立ちはだかり「主よ、わたしをお助けください」と懇願した。するとイエスは一瞥し「子供のパンを奪って犬に投げ与えることはできない」とつぶやいた。女は「主のおっしゃる通りです。しかし主人の食卓からこぼれ落ちるパンくずくらいは犬も食べることができるでしょう」と食い下がった。イエスは終に女に向かって「あなたの信仰はみあげたものだ。願いはかなえられるだろう」と言った。するとこの女の娘は癒された。(マタイ伝15:21-28)
ユダヤ民族の守護神であっても個人に対する愛情に欠けたエホバを救いや癒しの対象に高めたキリストも、これほど民族色の強い神がユダヤ人以外の信仰の対象になるとは考えていなかったようだ。このため在世中はもっぱらユダヤ人にのみに布教し、弟子達には「聖なるものを犬にやり、真珠を豚に投げ与えてはならない。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみつくだろう」(マタイ伝7:6)と述べ、「異邦人の道に行き、サマリヤ人の町に入ってはならない」(マタイ伝10:5)と説いている。
イエスの教えは、ユダヤ人には結局受け入れられず、ユダヤ社会から閉め出された弟子達により、ローマ帝国の支配圏やその周辺地域に急速に広まった。これはイエスにとっても予想外だったことだろう。
パウロの回心
使徒行伝を読むと、何故こうしたことが起こったか、そのいきさつがおよそ理解できる。ローマ市民であること、またファリサイ派であることを生涯誇りとしたパウロが、その鍵を握っているようだ。世にパウロの回心と称されているが、パウロ自身は自分がファリサイ派であることを止め、キリスト教に改宗したとは言っていない。
パウロがキリスト教の布教に加わったため、特に海外在住のユダヤ人の間にキリスト教が急速に広まった。しかし非ユダヤ人に受け入れ難い割礼や食生活等に関わる戒律を廃止したため、ユダヤ教正統派から憎まれ、その讒訴が原因で、パウロはローマで死刑に処せられた。
サンヘドリン(議会)におけるファリサイ派やサドカイ派との論争後、ローマ兵によりユダヤ総督の下に護送されたパウロは、総督に対して、ローマ市民としてローマ皇帝の下で裁判を受けることを求めた。この時、フェスト総督からパウロの処遇について相談を受けたユダヤのアグリッパ王は、「あの男は、カイザルに上訴しなかったら、ゆるされたであろうに」と述べている。
どうやらパウロは自らローマを死に場所に選んだようだ。ナザレの大工の子イエスがローマから派遣された一総督の下で、辺境のユダヤで死刑に処せられただけなら、キリスト教は数年ないし、数十年で消滅していたかも知れない。しかしファリサイ派の指導者でもあるパウロがローマ皇帝の前で弁論し、殉教したことにより、ユダヤ教の一派に過ぎなかったキリスト教は一躍世界宗教に変身した。
占領下の思想的混沌は再活現成の陣痛
ローマの支配下に入ったユダヤは、米国占領下の日本同様メルトダウン現象が生じたが、その思想的混沌状態からキリストやパウロのような宗教家が誕生した。メルトダウンは、再活現成のための陣痛なのかも知れない。
宗教は進化もすれば、後退もする。進化も後退も信仰するもの自身にかかている。ユダヤ民族をエジプトの地から救い出すことを至上命令としたモーセ、譬え選民であっても洗礼と贖罪をせねばならず、それが神の国に至る第一歩と説き、個人の信仰のあり方を宗教の中心に据えた洗礼者ヨハネ、メシアが人類の罪を背負って十字架にかけられると言うヨハネの預言を身を以て実践したキリスト、キリスト教を非ユダヤ社会にも受け入れやすいものに変身させたパウロが、その例ではないだろうか。仏教がインドから中国を通過し日本に渡来する間に変化をとげたように、キリスト教もモーセ、ヨハネ、キリスト、パウロ、そして今日、世界中のキリスト教徒に伝承される中で、進化し続けているものと思われる。
キリストはユダヤ人に向かって、「あなたがたは、聖書(旧約)の中に永遠の命があると思って調べているが、これらの聖句は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ伝5:39)と述べている。イエスはここで「聖書の一言一句は自分が今ここに存在する意味(父母未生以前自己本来の面目)と、自分が今何をなすべきか(天命)を明らかにしたものである。あなたがたもそのように聖書を読まねばならない。そうしてこそ初めて永遠の命に到達できる」と説いたものと見られる。(回光庵返照居士 2008/04/27)
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。(キリスト教の起源p.155)
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【参照】
送らず、迎えず
名の屍になるなかれ、謀りの府(くら)になるなかれ、ことの任(つかさ)となるなかれ、知の主になるなかれ、体は無窮にして尽きず遊びて朕(きざし)をとどめず、その天より受けしところを尽くしてしかも得るものを見ず、虚あるのみ。至人の心を用うること鏡の如し。将(送)らず迎えず、応じて蔵せず。故によくものに勝りそこなわず。(荘子内篇 應帝王第七)
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