書評:聖霊のバプテスマ(日面仏、月面仏)
ユダヤからアンティオキアにやって来た宣教師が、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と説いたことから、パウロやバルナバとこれらの宣教師の間に激しい論争が生じた。
パウロとバルナバは、エルサレム教会の使徒や長老たちとこの問題を話し合うため、アンティオキア教会の数名の幹部を伴ってエルサレムに赴いた。(使徒15:1-2)
第1回使徒会議の顛末
地中海沿岸地域の異邦人ユダヤ教徒の間に生じた教会運動とイスラエル国内で洗礼者ヨハネやイエスが創始したとされる宗教改革運動が合流し、イエス処刑の1ヶ月半後に大祭司カイアファの屋敷に隣接したエッセネ派集会所でエルサレム教会が発足した。
しかし、ユダヤ人の宗教としてのアイデンティティを維持したいヘブライスト(ヘブライ語やアラムを共通言語とするユダヤ教徒)と、ユダヤ人の臭気を消し去りたいヘレニスト(ギリシア語を共通語とする海外在住ユダヤ教徒)の間の対立が直ぐに表面化し、ステファノ殉教事件も発生したことから、ヘレニスト信者はエルサレム城外に退去を強いられた。
このため、シリアにヘレニスト信者を主体にしたアンティオキア教会が、パウロやバルナバにより新たに創設された。しかしユダヤからやって来た宣教師が、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と、説いたことから、パウロやバルナバとこれらの宣教師の間に激しい論争が生じた。
パウロとバルナバは、エルサレム教会の使徒や長老たちとこの問題を話し合うため、アンティオキア教会の数名の幹部を伴ってエルサレムに赴き、いわゆる『第1回使徒会議』が開かれた。
ペテロが、カエサリアのイタリア隊の百人隊長の家に招かれ、多数の異邦人に聖霊のバプテスマを施した事例(使徒10:1-48)を挙げ、「神が私たちユダヤ人同様に異邦人も受け入れられることが証明されたにも関わらず、あなた方は、先祖も私たちも負い切れなかった軛(くびき)を、彼れらの首にかけ、神を試そうとするのか(使徒15:7-11)」と語ると、エルサレム教会を率いるヤコブも立ち上がり、「ペテロが語ったことは、イスラエル再興の日には、異邦人も主に帰属すると言う旧約アモス書の預言(アモス9:11-12)に符合している。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはならない」とし、「異邦人信徒が守るべき律法は、①偶像に供えた肉、②みだらな行為、③絞め殺した動物の肉、そして④血を避けるの4点にとどめるべきだ。モーセの律法は、どこの町のシナゴーグでも安息日ごとに読まれているのだから、異邦人には、それで十分だ」(使徒15:13-21)と提案した。
こうして、ヘブライストとヘレニストの妥協が成立、ヤコブの以上の提案を『第一回使徒会議』の決議として、アンティオキア教会を初めとする異邦人教会に通達することが決まった。また、パウロとバルナバには異邦人を対象に、布教する使徒の地位が認められ、小ヤコブ、ペテロ、ヨハネ等は、割礼を受けたものを対象に布教することになった。(ガラ2:9)
ヘブライスト信者もヘレニスト信者も、イエスの聖霊のバプテスマを教会運動の根幹に据えることで意見の一致を見たものの、ユダヤ教的色彩をどこまでとどめるかと言う点では、ヘレニスト信者内部やヘブライスト信者内部でさえ、極めて大きな相違と対立が存在した。ヘレニストのリーダー、ステファノはどうやら神殿の権威やモーセの律法そのものを否定したようだ。これに対して解放奴隷の会堂のメンバーらは、ヘブライスト以上にモーセの律法を重視した。またハスモン朝により強制的にユダヤ教に改宗させられたガリラヤ出身のペテロは、モーセの律法を負いきれない軛と感じていたようだが、ユダ族とレビ族双方の血を引く祭司階級の小ヤコブは、旧約の律法を厳格に遵守する生活をおくり義人と称えられていた。
異邦人の割礼については、ペテロや小ヤコブは、信者自身の自由意思に委ねる姿勢のようだが、パウロは断じてこれを拒絶した。
割礼の起源
多神教徒の父親テラに従い(ヨシュア24:2)、メソポタミアのウル(カルデア地方)を離れ、ユーフラテス川上流のハラン(パダン・アラム地方)に移住したアブラム(アブラハムの旧名)は、父親の死に伴い、地中海沿岸をさらに南下、カナンにたどり着いた(創世記11:31-12:5)。
アブラムは、飢饉の折り一旦エジプトに移住、再びカナンに戻った際、神と契約を結び、その証として、一族全員に割礼を受けさせるとともに、その名をアブラムからアブラハムに、正妻(異母妹)の名もサライからサラに改めた。
カナンに定住することを決意したアブラハムとその一族は、同地に同化するために、多神教を捨て土着の一神教に改宗したものと見られる。ウィキペディアによれば、ヘブライ語も、この地で現地住民から学んだようだ。とは言え、アブラハムとその一族は、カナンに移住した後も、遊牧を生業とし、土地の許容範囲を超えて家畜が増えると、分封したり、他の土地に移動する生活を維持した。このため独自の国家が形成されるまでは、他の農耕民族からは、常に外国人と見なされていた。
ちなみに、父親と死別した時点で75歳だったアブラムは、86歳の時、エジプト人の召使いハガルとの間に第一子イシュマエルをもうけ、99歳の時、一族全員に割礼を施し、その翌年、正妻サラとの間に第二子イサクをもうけた。またアブラムとアブラハムは、それぞれ80歳と90歳を超えた妻のサライとサラを妹と称してエジプト王とゲラルの王に差し出したと言う類似の逸話が存在し、アブラムの甥のロトが、長女と次女との間にそれぞれ男子をもうけ、これらの子供がモアブ人とアンモン人の祖先になったと言う挿話も、混入されている。アブラハムは、妻サラが137歳で死ぬと、ケトラを娶り、それぞれ異なる部族の始祖となるジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアをもうけ、175歳で死んだ。その遺骸は、イサクとイシュマエルの手によって,カナンの地ヘブロンのマクペラの洞穴に妻と共に葬られたと言う(創世記25:1-10)。
このため、カナン地方、ひいては全世界の諸部族をアブラハムの血筋に統合するため、複数の系統の神話が合体されたこと、またアブラハムのモデルになった人物が複数存在したことが窺える。
モーセの律法
アブラハムのひ孫のヨセフは兄弟たちから奴隷としてミディアン人の隊商に売り飛ばされたが、エジプト王から全土を管理する長官(財務相?首相?)に任じられ、飢饉のおりに全一族をエジプトに呼び寄せた。
時代が推移し、再び奴隷の身分に転落したアブラハムの子孫は、モーセに率いられ、エジプトを脱出した。40年間シナイの砂漠を彷徨し、先住民を征圧、カナンに帰還する過程で、ユダヤ教の根幹を成すいわゆるモーセの律法が形成された。
モーセは、アブラハムを初めとする始祖たちが、一神教に改宗後も、地元と血縁を結ぶことを回避し、多神教の故郷ハランとの血縁を重視したこと、その結果テラフィム(氏神・偶像)信仰や近親相姦の風習が維持され、後継者選びや財産相続の際に紛糾を生じさせたことを憂慮、厳しい戒律を設け、ハランやエジプトの多神教的風習の一掃を図ったものと見られる。
グノーティシズム
地中海からインドに至る広大な地域を征圧したアレキサンダー大王の死後、イスラエルは、セレウコス朝シリアの支配下に入ったが、祭司マカベアの一族は、シリアの支配を覆し、ハスモン王朝を樹立した。神話時代を除けば、歴史上初のユダヤ人の統一国家を築いたハスモン王朝は、非ユダヤ人も強制的にユダヤ教に改宗させる一方、ギリシア文化も積極的に受容した。
他方、エジプトを支配したプトレマイオス王朝の下では、旧約聖書がギリシア語に翻訳されただけでなく、エジプト、ペルシア、インド等の異文化が渾然一体となったシンクレティズムの環境下に、ユダヤ教を批判的に受容したグノーティシズムの潮流が生じ、首都アレキサンドリア在住のスカラー達は、ユダヤ教とギリシア哲学の融合を試みた。
こうしてイエスが誕生する頃には、ユダヤ教徒の大部分は、ヘブライ語でも、アラム語でもないギリシア語を共通言語とし、グノーティシズムは、地中海沿岸地域に生じた教会運動に強い影響を及ぼしただけでなく、イエスの説く聖霊のバプテスマの思想的根幹になった。
グノーティシズムはインドの大乗仏教運動にも影響を及ぼし、取り分けイエスの『聖霊のバプテスマ』はトマスによりインドに伝えられた後、中国や日本で禅文化を開花させたのみならず、
イスラム教の誕生にも寄与したようだ。
日面仏、月面仏
中国唐代の中葉に江西省洪州の開元寺を拠点に洪州宗と言う一大宗派を開いた馬祖道一(ばそ・どういつ:709-788)と言う禅僧がいた。
この禅僧は、経典や観心よりも日常生活そのものを重視する大機大用の禅を説き、百丈懐海や南泉普願など錚々たる嗣法の弟子88人を輩出、『平常心是道(びょうじょうしん、これみち)』や『即心即仏』といった名言を残したことでも知られる。
ところが、近頃どうもそわそわして、様子がおかしい。そこで開元寺の寺務を司る院主が、「和尚、このところ、お気が休まらぬご様子ですが、どこかお加減でも悪いのですか」と問うと、馬大師は「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(がちめんぶつ)」と答えられた。
『日面仏』は、現世に出現する1000人の仏の中で58番目にランクされるが、寿命が1800歳と恐ろしく長い。それに反して202番目に登場する『月面仏』は、一日一夜の命しかないとされる。どうやら、よわい79近くになった馬大師は「俺もそろそろ年貢の納め時か」と感じられたようだ。
寒時には闍梨を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺する禅家の悟りとは、淋しい時はうち沈み、悲しい時は泣き叫ぶ、ただそれだけと悟ること、『平常心是道』もそう言うことである。「心頭滅却すれば火も亦た涼し」と言う偈を遺したとされる快川紹喜(かいせん しょうき)禅師も、織田信長の焼き討ちに遭い、焼死した際には、のたうち回ったに違いない。それが、禅家の大往生である。
「世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかり」、「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」と言う狂歌を遺した日本を代表する禅僧、一休宗純も、京都府京田辺市の酬恩庵でマラリヤに患り死を間近にした時には、「死にとうない」と述べたとされる。
ちなみに東光書院の暁天坐禅の師家を務めた釈大眉老師(1881-1964)は、碧巌録第三則のこの公案を提唱された際、『日面仏』と『月面仏』について、右を向いて「コンコン」、左を向いて「ちゅうちゅう」と、説明されたと言う。
聖霊のバプテスマの神髄
大衆を率いてエルサレムに入城したイエスも、数人のギリシア人と面会した後、「今、私は心が騒いでいる。私はなんと言おうか。父よ、この時から私をお救い下さい。しかし、私はこのために、この世に来たのです。(ヨハネ12:27)」と述べ、俄に動揺し始めた。イエスの苦悶は、ゲッセマネの祈り、そして「父よどうして私をお見捨てになるのか」(マルコ15:34, マタイ27:46)と言う十字架上の絶叫により、クライマックスに達した。
十字架上でのたうち回ることさえできず、絶叫したイエスの苦悶を目撃した直弟子たちは、聖霊のバプテスマの神髄をそこに見いだし、福音書に書き残したものと見られる。
<以下次号>
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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【参照】
東光書院
[創設]
昭和6年4月24日:東京都麻布区
昭和12年7月東京都渋谷区新橋町に移転 院長:村上徳太郎
[院規]
一、一身の苟安を思わず、天下の為に志を立つべし。
一、誓って徳慧を養い、浮躁なる思想を風動すべからず。
一、大事に当っては身を殺して仁をなすの覚悟あるべし。
[日々行事集]
『般若心経』、『白隠禅師坐禅和讃』、『四弘誓願』、『懺悔文』、その他。
[日課]
御前4時半:起床/清掃
御前5時半:坐禅/院主法話
御前6時半:朝食
午後6時:夕食
月末1回:沼津大中寺住職釈汰眉老師に参禅
年2回1週間の接心
昭和20年5月24日渋谷本院爆撃により消失。
昭和20年8月15日の終戦後東京都荏原区小山に移転。
昭和21年4月東京都蒲田区西六郷に移転
昭和21年11月会報『回光』発行開始。
昭和22年7月東京都世田谷区田代に丸亀道場開設
昭和23年11月東京都港区佐久間町に辰野道場開設
昭和29年4月:埼玉県東松山市に回光庵落成、東光書院再建
昭和45年4月村上武が院長に、村上徳太郎は院主に就任
昭和52年1月12日院主村上徳太郎逝去
盛田稔青森大学元学長と東光書院の出会い
東大学生時代に東光書院の塾生であられた盛田稔先生(青森山田学園理事長)は、その著、『
生涯現役:波乱万丈の95年(
文化出版)』の中で、東光書院との出会いを次のように回顧されておられる。
父が、私の心の師となるべき方の選定を清水精一氏に依頼したことについて、私には異論はなかった。
昭和15年の暮れ頃、同氏から一通の書状が届いた。その中に、東京渋谷の恵比寿駅近くにある禅塾『東光書院』のことを大きく紹介している読売新聞の記事が同封されていた。書状の内容はこの東光書院への入塾を勧めるものであった。新聞記事の内容はおおよそ次のようなものであった。
....東光書院の院長、名は村上徳太郎、上海の東亜同文書院出身、同校の助教授であったが、感ずるところがあり、東光書院を開いた。氏によれば、国際社会は、自由にして道義的秩序のもとに働く社会でなければならない。そのためには、徹底的に人間教育からやり直さなければならない。東光書院はそのために働く人間を、東洋思想を体得させることによって育成することを目指すものであり、現に日本の青年のみならず、蒙古、支那の志ある人士が集い、毎日坐禅修行に励んでいる....
私は、自分の意思で入塾を決意、父も賛成したので、正月を七戸で過ごした後、1月のある日、入塾のお願いに東光書院に参上、お許しを得た。-略-
結局この日は数息観もできないままに終わった。坐禅が終わってから村上先生の法話があった。先生の法話は仏教のみならず、儒・督(キリスト教)・道教にまで及び感銘深いものであった。ここで先生の思想のよって来るところを解明する必要があろう。
先生は臨済宗釈大眉老師下の居士である。釈大眉老師は円覚寺・建長寺両寺の管長を勤めた日本臨済宗界を代表する傑僧釈宗演老師の一番弟子である。-略-
こうして禅堂生活をしているうちに、世は太平洋戦争に向かってまっしぐら進みつつあった。-略-
中曽根康弘元内閣総理大臣入塾のきっかけ
Q:回光がこの9月号で600号となりました。院主村上徳太郎の教えや思い出、回光に対するお考え等お話頂きたいと思います。先生が東光書院においでになった最初は昭和16年でございましたね。
A:あの時は、私の旧制静高の同級生で大矢知君と言うのがいましてね。それが、もういよいよ戦争だと。それで大学で勉強したのもいいけれど、何か勉強したりないものがあるな、というような話をしてね。それで東光書院というところで、坐禅をやっているからお前どうだ、ということから、俺は坐禅は大好きだ、それじゃ行こうといって、それで伺ったのが初めでしたね。新橋町にありましたね。
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