書評:聖霊のバプテスマ(アラム語ルーツVI)
イエスが言った、「全てを知っていて、自己に欠けているものは、全てのところに欠けている」。(トマス67)
日本語版『トマスによる福音書』の著者、荒井献氏によると、マルコ(8:36)、ルカ(9:25)、マタイ(16:26)の『人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。 』を連想させる。『すべて』は宇宙指しているのかも知れない。『宇宙は過ぎ去るものである(トマス11/111)』。だから、その『すべて』を知っていても『本来的自己に欠けている』ならば、一切に欠ける。自己を知らないなら『貧困』にある(トマス3)。
見たところ、トマス67節はトマス5節の裏返しと言えそうだ。イエスが言った、「あなたの目の前にあるものを知りなさい。そうすれば、あなたに隠されているものは、あなたに現されるであろう。なぜなら、隠されているもので、あらわにならないものはないからである。(トマス5) あなたが本来の自己に目覚めないなら、『目の前にあるもの』を『神の啓示』として捉えることはできない。
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地中海とヨルダン川に挟まれた乳と蜜の流れる約束の地カナンを巡る遊牧民と農耕民の抗争は、モーセの後継者ヨシュアによってヨルダン川西岸が制圧されたことにより、一応収束したものの、決して一枚岩でない十二(乃至十四)部族の連合体は、その後も引き続き、内部抗争や土着農耕民との摩擦に加えフェニキア人やペリシテ人等の海洋民族の侵攻にも対処せねばならなかった。しかしベニヤミン族のサウルそしてユダ族のダビデとその子ソロモンの登場により、短期間ではあったが、イスラエルは部族連合から統一王国に変身した。この経験は、アラム語を話す遊牧の民により直ちに極東の豊葦原の瑞穂の国にもたらされたのみならず、大秦帝国の誕生にさえ一役買ったようだ。
四川省成都市出身で日本で永住権を取得した拓殖大学客員教授を務めるコメンテーターの石平(せきへい1962-)氏によると、中国の歴史は宗族(そうぞく)、すなわち名字を等しくする同族集団の械闘(かいとう)、すなわち武装闘争の歴史であり、械闘と汚職を制御するリーダーさえいれば、経済共同体と互助組織の機能を兼備した宗族に任せておけば、経済は自然に成長し、社会は発展すると言う。
確かにその通りで、この道理は十二部族の連合体の古代イスラエルや古代日本のみならず全世界に当てはまりそうだ。しかし統一国家には多くの宗族を束ねる理念が必要だ。そこでイスラエルではモーセが、十二部族の遊牧民を単一の始祖アブラハムと神との契約に基づく祭政一致の部族聯合に再編するためにユダヤ教を樹立、日本では、八百万の神を信じる中国系、朝鮮系、モンゴル系、海洋系の移民や先住民の縄文人を束ねるために、聖徳太子や天智天皇、そして天武天皇らにより神道、ユダヤ教、原始キリスト教、儒教、仏教、道教を集合した万世一系の天皇制が形成された。
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乙巳の変と大化の改新
皇極天皇(こうぎょくてんのう)の第4年6月12日、西暦645年7月10日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿(だいごくでん)において、三韓(新羅、百済、高句麗)進貢(しんこう:朝貢)の儀が催された。皇極天皇(こうぎょくてんのう)が長男で事実上の太子、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を伴って出御すると、実質的次席太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と祭祀を司る中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが乱入し、大臣(おおおみ)の蘇我入鹿(そがのいるか)を惨殺した。世に言う『乙巳の変(いっしのへん)』である。これを機に、大和朝廷を部族連合政権から天皇を頂点に頂く中央集権国家に生まれ変わらせる一連の改革、所謂『大化の改新』がスタートした。
この時、中国の律令制度の導入や、恒久的な王都の建設の他、古事記や日本書紀に加え万葉集が編纂され、大和民族意識の醸成が図られた。これは、聖徳太子が秦河勝(はたかわかつ)に命じ全国の八百万(やおよろず)の神々を万世一系の天皇家の御稜威(みいつ)に帰せしめる努力を継承したものと言える。
二つの天孫降臨神話
記紀によれば、日本の皇室は北九州筑紫の高千穂の峰に降臨した天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の直系とされる。天照大神は、天上界を追放された実弟須佐之男命(すさのうのみこと)が下界に建てた出雲国を須佐之男命の娘婿(あるいは6世の孫)の大国主命から譲り受けた後、瓊瓊杵尊にその経営を命じた。
瓊瓊杵尊の曾孫神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)は、元々北九州の筑紫辺りに存在したらしい出雲国から日本列島の中心に位置する大和に遷都する方針を決めた。ところが大和には天照大神の別の孫、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が建てた国が已に存在していた。数度の激戦の末、互いに同じ天遜族であることを認め合い、饒速日尊は、神日本磐余彦尊に帰順した。ここにおいて神日本磐余彦尊は、辛酉年1月1日、西暦紀元前660年2月11日に、畝傍橿原宮(ウネビノカシハラノミヤ:現在の奈良県)において神武天皇として即位、日本を建国した。
饒速日尊が降臨した詳細は、記紀には、伝えられていないが、『先代旧事本紀』によると、その随員は遙かに瓊瓊杵尊の随員を上回っていた。
神武天皇の朝鮮ルーツと出雲大社
また日本書紀は神武天皇の兄の稲飯命(いないのみこと)は新羅王の祖としている。つまり北九州の朝鮮系豪族が天孫饒速日尊の大和王朝を接収し、神武王朝を建てたことを暗示している。
ちなみに記紀には最初に大和王朝を建てたとおぼしき天皇が二人登場する。第一代の神武天皇と第十代の崇神天皇(すじんてんのう)である。神武天皇の古事記の呼称は神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)だが、日本書紀には始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)と記されている。また崇神天皇に関しても古事記には『初国知らしし御真木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)』、日本書紀には『御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)』と述べられており、どちらも最初に国家を統治した天皇と言うことになっている。
今日、第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第九代開化天皇(かいかてんのう)までは、古代日本史上において、系譜のみで事績が不明瞭な『欠史八代(けっしはちだい)』と称されている。しかし、第二代から第九代までの系譜には、饒速日尊を祖とする、神武東征以前の大和朝廷の系譜が反映されているのかも知れない。
また第十代崇神天皇は大物主尊(おおものぬしのみこと:出雲大社の祭神)を祭り疫病を鎮めるとともに、『万世一系』の詔を発したとされる。
三韓征伐と応神天皇
仲哀天皇の崩御後に身重の体で三韓征伐を断行した神功皇后が、帰国後に生んだ譽田尊(ほんだわけのみこと)が、第十五代応神天皇(おうじんてんのう)とされるが、その実在性も疑問視されており、第十六代仁徳天皇(にんとくてんのう)と同一人物としたり、第二十六代継体天皇(けいたいてんのう)を天皇家の系譜に加えるために挿入された架空の天皇とする説も存在する。
とは言え、応神天皇(AD200-AD310)の治世には百済や新羅の使節の他、学者や技術者が頻繁に渡来した。特に即位14年には秦の始皇帝(BC259-BC210)三世の孫で、秦氏の祖先とされる弓月君が百二十県の民を率いて帰化を希望したものの、新羅の妨害を受け、加羅で立ち往生していたため、応神天皇は二度にわたり朝鮮に派兵し、弓月の民の渡来を実現したとされる。
この応神天皇から始まる王朝は河内(大阪府東部)に宮や陵を多く築いていたことから『河内王朝』と呼ばれる。
国際文化振興財団元理事の種田光一朗(たねだこういちろう)氏は、天皇家の系譜を見ると、第一代神武天皇、第十代崇神天皇、第十五代応神天皇の三人の名に『神』の字が用いられており、天皇家に新しい血が入った際に神(=光胤)と言う文字が用いられたと指摘する。
日本書紀によると、第十一代垂仁天皇(すいにんてんのう)は、渡来した大伽耶国(だいかやこく)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)を本国に返すにあたり、父崇神天皇の諱(いみな)『御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)』の御間城(みまき)を国名にするよう求めた。これが後に朝鮮半島の日本府になった任那(みまな)の由来とされる。『任那』は朝鮮半島南部の『伽耶(かや)小国群』のなかの一つ『金官国(きんかんこく)』の別称だった。
このことから東京大学の江上波夫(えがみなみお1906-2002)名誉教授は、朝鮮半島の任那から来た北方騎馬民族による日本征服説を提起し、崇神天皇の諱は同天皇が朝鮮から渡来したことの証左とした。いずれにしても古事記や日本書紀はしきりに天皇家のルーツが朝鮮半島にあることを暗示している。
武内宿禰と蘇我氏の興起
ちなみに心理学者で日本史研究家の安本美典(やすもとびてん:1934-)氏は、応神天皇は、神功皇后(じんぐうこうごう)が武内宿禰(たけうちのすくね)との間に儲けた私生児と見ており、だとすれば武内宿禰の後裔の葛城氏(かずらきし)や蘇我氏(そがし)のその後の興起もうまく説明できると述べている。
第八代孝元天皇(こうげんてんのう)の曾孫で、祭祀権と軍事権双方を有する大臣(おおおみ)として、景行(けいこう)/成務(せいむ)/仲哀(ちゅうあい)/応神(おうじん)/仁徳(にんとく)五代の天皇に仕えた武内宿禰の孫の石川麿(いしかわまろ)が、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代に蘇我姓を名乗り、蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)と呼ばれた。
二代目蘇我満智(そがのまち)は、第十七代履中天皇(りちゅうてんのう)が、即位2年、磐余(いわれ)に遷都した際、物部伊莒弗(もののべのいこふつ)、平群木菟(へぐりのつく)、円大使主(つぶらのおほみ)らとともに国政に参画したが、世継ぎがなかったため、百済から人質として渡来した林聖太子(りんしょうたいし)の孫を養子として迎えた。これが蘇我韓子(そがのからこ)で、朝鮮系随一の官吏として宮中で活躍するようになったと言う。
継体天皇は秦一族
第二十五代武烈天皇(ぶれつてんのう)が後嗣を残さずに崩御したため、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)や物部麁鹿火(もののべのあらかび)、大臣(おおおみ)の巨勢男人(こせのおひと)などの群臣は、応神天皇の五世の孫とされる越前(福井県を中心にした北陸地方)の豪族男大迹王(おほとのおう)に白羽の矢を立てった。紆余曲折の後、男大迹王は507年に河内国樟葉宮(くすばのみや)において第二十六代継体天皇として即位したものの、その後長期にわたり大和入りせず、19年後の526年に初めて大和に宮を定めた。このため継体天皇をそれ以前の大和王権とは血縁を有せぬ別個の王朝の始祖と見、その王朝を越前王朝と称する歴史学者も存在する。
継体天皇は、第二十四代仁賢天皇の皇女手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間に生まれた天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと=欽明天皇)を嫡男とした他、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の女(むすめ)目子媛(めのこひめ)との間に勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ=安閑天皇)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ=宣化天皇)をもうけた。
記紀は安閑天皇の子女に触れていないが、室町初期に編纂された『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』にると、安閑天皇には豊彦王(とよひこのみこ)と言う皇子がおり、豊彦王は秦河勝と同一人物と言う。だとすれば、継体天皇もまた、朝鮮から渡来した秦の始皇帝の末裔とされる秦氏一族だったことになり、さらに敷衍すれば、秦の始皇帝(BC259-BC210)自体も、アラム語を話す遊牧民エフライム族の末裔だった可能性がある。
秦の始皇帝の出自
中国河南省東部の開封市で発見された『重建清真寺記碑』には、紀元前231年に初めてユダヤ人が同市に到来し、ユダヤ人コミュニティーが形成されたと記されている。
この頃、秦の政王(始皇帝)は、南下し楚に総攻撃を仕掛ける一方、若手司令官の王賁(おうほん)に魏の王都大梁(現在の河南省開封)を包囲するよう命じた。しかし大梁城は多年にわたり修築を重ねてきただけに頗る堅固で、秦軍は攻めあぐねた。そこで王賁は黄河の支流鴻溝(こうこう)の水を大梁に注ぎ込んだ。3ヶ月後、大梁の城郭壁壘は水没し、魏王はやむなく投降、魏は滅亡した。この年が、『重建清真寺記碑』に記された紀元前231年である。と言うことは、最初に開封市にコミュニティーを築いたユダヤ人は、魏の王都大梁の攻城戦に参加していたのだろうか。
ちなみに『ユダヤ人の起源』の著者、テレアビブ大学のシュロモー・サンド歴史学教授によると、エジプトに作られた最初のユダヤ人共同体は、現在のアスワン・ダムに近いエレファンティネ島にあった。それはペルシア軍のユダヤ人守備隊の兵営であり、彼等は紀元前6世紀にヤハウェ礼拝のための神殿を建立していた。しかし明らかに唯一神としてではなかった。アレキサンダー大王の後継者の一人でエジプトのプトレマイオス朝の創始者プトレマイオス一世(在位BC305-BC282)はユダとサマリアを征服後多くの捕虜をエジプトに移送し、市民権を認めたため、多くのユダヤ人がエジプトに移住した。他方シリア地方を支配したセレウコス朝のアンティオコス三世(在位BC223-BC187)はバビロニアのユダヤ人傭兵2000世帯を小アジアのリュディアやフリュギアに移住させた。このため西暦1世紀初めのユダヤ人の人口はエジプトだけで100万人(ユダヤ人哲学者フィロン)、全世界のそれは800万人(ユダヤ系アメリカ人サロー・バロン)に達した。サンド教授は恐らくその半分と見るのが合理的と指摘するが、中央アジアや極東にまで進出したアラム語を話す遊牧の民やユダヤ教や原始キリスト教に改宗したものを含めるなら、それを遙かに上回ったかも知れない。注目すべきは、この種のユダヤ人は移住先の支配者により傭兵として用いられていたらしいこと。したがって古代中国においても彼等はユダヤ教や原始キリスト教の宣教のみならず、戦国七雄の傭兵も務めていたかも知れない。
秦は五胡の一つ羌(きょう)の故地甘粛省の秦亭(しんてい)を発祥地とする遊牧民と見られ、標高1500メートルの山間に位置する秦亭では今でも馬の生産や飼育が行われていると言う。
秦の政王の父親の異人(いじん)は趙に人質として送られていた。異人はその名の通り非漢人と見られる。異人は韓の商人呂不韋(りょふい)の妾の一人だった趙姫(ちょうき)を譲り受け、趙の首都邯鄲で男児を儲け、政と名付けた。こうした経緯から、古来政が異人の子でない可能性が指摘されている。祖父の昭襄王(しょうじょうおう)が協定を破って趙に侵攻したため、異人は妻子を捨てて逃亡した。このため政も母親とともに敵地のまっただ中で逃亡生活を強いられたと言う。
その後、異人は、呂不韋の策略通り秦の第三十代君主で第五代国王の荘襄王(そうじょうおう)となり、呂不韋が丞相を務め、政が太子になった。荘襄王が在位3年で死去したため、政が秦の第六代国王になった。
秦の始皇帝の実父の可能性が指摘される呂不韋(文信侯)の出身地については、韓の陽翟(ようたく)と衛の濮陽(ぼくよう)の二説があり、商人の子として生まれ、各国を渡り歩き財を築いたとされる。中華民国と中華人民共和国の政治家、文豪、歴史学者として著名な郭沫若(かくまつじゃく1892-1978)氏や東京都立大学名誉教授を務める中国史家の佐竹靖彦(さたけやすひこ1939-)氏は、漢の高祖劉邦(りゅうほうBC256-BC195)の妻呂雉(りょちBC241-BC180)は、呂不韋の一族と見ている。
五胡十六国の時代に前秦(AD351-AD394)を建てた氐(てい)族も後秦(AD384-AD417)を建てた羌族もチベット系遊牧民だった。イスラエルの調査機関アミシャーブのDNA調査によれば、羌族は代表的なマナセ族の末裔と言う。興味深いことにイスラエルの十二部族の中では、兄弟たちから奴隷として売り飛ばされ、その後エジプトの宰相になったヨセフの子のマナセとエフライムの系統だけが、チベット人や日本人、取り分け縄文人に特徴的な
Y染色体遺伝子Dを保持すると言う。
一方、『日本新聞』編集局長等を務めた藤井尚治(1888-1951フジイショウジ)氏は、その著『国史異論奇説新学説考』の中で、秦の始皇帝のために不老長寿の秘薬を求めて日本に渡った徐福(じょふく)は、失われた十部族の一つの始祖ヨセフ(ジョセフ)だったとと言う説を紹介している。だとすれば、ヨセフ(徐福)の子の
エフライムこそ神武天皇だったという説もつじつまが合いそうだ。
磐井の乱と欽明天皇のクーデター説
大和に遷都した翌年、新羅の侵攻を受けた百済から救援を求められた継体天皇は、朝鮮に遠征軍を派遣しようとしたが、北九州筑紫の豪族磐井(いわい)が新羅と結んで反乱を起こした。この反乱の鎮圧により、継体天皇は、その王権の基礎を固めたとされる。
また一方、『日本書紀』は、『辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった』という『百済本記』の記述を引用し、継体天皇の晩年に政変が生じたことを示唆している。このため継体天皇とその本来の後継者であった安閑・宣化が殺害され、欽明天皇が即位したのではないかとの説が生じた。
<以下次号>
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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