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『契約の民の流浪史』スライドショー第四話:パウロの挑戦











<スライドショー第四話>
イエスから直接教えを受けたことのないパウロは、その宣教生涯の初めから一貫して,『神の子』の福音を伝え、『人の子の福音』を説いたイエスの弟、小ヤコブに率いられる正統派キリスト教と一線を画すとともに、ファリサイ派やサドカイ派等のユダヤ教諸派のみならず、エルサレム教会内部のヘブライストとも激論を展開、ヘレニストのためのキリスト教を確立した。
新約聖書の基調になった『パウロ神学』

パウロの書簡は、新約聖書聖典27文書の中で、14文書、全体の52%にのぼり、ページ数でも日本語口語訳新約聖書全409ページ中127ページ、全体の31%を占める(ソース:笹倉キリスト教会)。そればかりでなく、これらのパウロ書簡は、ユダヤ戦争後に続々完成した他の文書群に先駆けて、パウロの生前から組織的に流布されたため、パウロ神学が新約聖書全体の基調を成すようになった。
霊と肉の相克

小ヤコブが、信仰と実践の一致、『行信一如』を説いたのに対し、パウロは、「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」という『信仰義認』を説くとともに、「自分は幻の中でイエスからこの福音を伝えられた」と述べ、生前のイエスの教えや直弟子達の教えを軽視する姿勢をとった。
このためヨハネ福音書の著者は、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている(ヨハネの手紙一4:2-3)」と述べ、さらに「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである(ヨハネの手紙二1:7)と、パウロの信奉者を激しく非難、「この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである(ヨハネの手紙二1:10-11)」と警告している。

またヘレニスト信者の擡頭に脅威を感じた≪マタイ福音書≫の著者は、「洗礼者ヨハネが活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている(マタイ11:12)」と警鐘を鳴らしている。対照的に≪ルカ福音書≫は、「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている(ルカ16:16)」と述べ、こうした状況を歓迎している。『力ずくでそこ(天国)に入ろうとしている』のは、パウロやルカに率いられるヘレニスト信者、すなわち、『肉によらないイエス』の信奉者たちである。
70週の預言とエルサレム教会の創設

ソロモンの死後、南北に分裂したイスラエル王国が、アッシリアと新バビロニアにより滅ぼされ、ユダヤ人が全世界に離散するとともに、爆発的に増加した異邦人ユダヤ教徒の間に独自のシナゴーグ、エクレシア(教会)を組織する運動が生じた。旧約≪ダニエル書≫の70週の預言に基づく救世主来臨の期待が高まる中で、西暦32年のペンテコステ(五旬節)に、エクレシアの本部をエルサレムに立ち上げる計画が醞醸していた。
早い時期にこうした動きを察知した大祭司カイアファは、自身の邸宅に隣接したエッセネ派の集会所に同本部を設け、ユダ族とレビ族双方の血を引くナジル派の司祭として、大祭司のみに許された聖所における祭儀を執り行っていたイエスの弟ヤコブを新組織のトップに据えることを思いついたものと見られる。この頃、エッセネ派の集会所には、イエスも出入りしていたことだろう。
また異邦人ユダヤ教徒の動向に関する情報を大祭司カイアファにもたらしたのは、恐らく『解放された奴隷の会堂(Synagogue of the Freedmen-Jews)』のリーダーを務めていたサウロこと、パウロだったものと見られ、そして大祭司カイアファのプランはサンヘドリンやローマ総督、及びヘロデ王家の同意も得ていたものと見られる。
エルサレム教会とアンティオキア教会の並立

大祭司カイアファの預言通り(ヨハネ11:49-52)、エルサレム教会は、イエスの処刑後僅か1ヶ月半で発足したが、ほどなく圧倒的多数を占めるヘレニスト(ギリシア語を共通言語とする主に未割礼の非ユダヤ人から成る異邦人ユダヤ教徒)信者とヘブライスト(ヘブライ語に堪能な内外のユダヤ人)信者の対立が表面化した。
ヘレニスト信者リーダーのステファノがサンヘドリンの審問後、石打の刑に処せられると、ヘレニスト信者はエルサレム城外に放逐された。ヘレニストとヘブライストの棲み分けの指揮を執ったサウロは、時を移さず、大祭司の勅許状を手に入れダマスカスにわたると、ヘレニスト・グループとともに宣教活動を開始した。

ステファノ事件を切っ掛けにシリアのアンティオキアに移住したヘレニスト信者による非ユダヤ人に対する布教が成果をあげると、エルサレム教会は、バルナバをアンティオキアに派遣した。
バルナバは、一旦故郷のタルソスに引き上げたサウロを呼び寄せ、1年かけてアンティオキア教会を立ち上げた。この時、同教会に連なる信者が初めてクリスチャンと呼ばれるようになった。
使徒パウロの誕生
キリスト教会のひな形として、アンティオキア教会の立ち上げに成功したバルナバとパウロは、さらに多くの信徒を獲得することを目指して、小アジアとその周辺の地中海地域を巡る宣教旅行に出かけた。
第一回目の宣教旅行でキプロス島に渡ったバルナバとパウロはパフォマス総督府の執政官セルギオ・パウロを訪ねた。この人物は、どうやらローマの元老院議員クラスの執政官で、イタリア南部出身で騎士階級のポンテオ・ピラトなどより格が上だった可能性がある。

この後、≪使徒行伝≫はサウロと言う呼称をパウロに改めただけでなく、それまでずっとバルナバを先に、サウロを後に記してきた記述方式を、パウロを先に、バルナバを後に改め、この時を境に宣教活動の主役がバルナバからパウロに入れ替わったことを明確にしている。そればかりか、エルサレムにおける第一回使徒会議で、パウロとバルナバに異邦人を対象に宣教を行う使徒の地位が認められるはるか以前の、この時から、早くもパウロとバルナバに使徒の肩書きをつけている。
≪使徒行伝≫は、なぜサウロと言うヘブライ語名を用いることを止め、パウロと言うギリシア語名を用いるようになったか、何も説明をしていないが、セルギオ・パウロとの出会いが、その疑問を解く鍵になることを強く示唆している。
第1回使徒会議

ユダヤからアンティオキアにやって来た宣教師が、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と説いたことから、パウロやバルナバとこれらの宣教師の間に激しい論争が生じた。
パウロとバルナバは、エルサレム教会の使徒や長老たちとこの問題を話し合うため、アンティオキア教会の数名の幹部を伴ってエルサレムに赴き(使徒15:1-2)、いわゆる『第1回使徒会議』が開かれた。
こうして、ヘブライストとヘレニストの妥協が成立、ヤコブの提案を『第一回使徒会議』の決議として、アンティオキア教会を初めとする異邦人教会に通達することが決まった。また、パウロとバルナバには異邦人を対象に、布教する使徒の地位が認められ、小ヤコブ、ペテロ、ヨハネ等は、割礼を受けたものを対象に布教することになった(ガラ2:9)。
パウロ、マルコを拒絶

第1回使徒会議で、異邦人に布教する使徒の身分を認められたパウロとバルナバは、シリア州のアンティオキア教会に戻ると、使徒会議の決議を異邦人信徒に伝えるため、直ちに新たな宣教旅行に乗り出した。
この時、バルナバは、再度マルコを同行させるよう求めたが、パウロは断固これを拒否した。結局、パウロは、エルサレム教会から派遣されたシラスを伴い陸路小アジアに旅立ち、バルナバは、パウロが同伴するのを拒絶したマルコを伴い海路キプロス島に向かった。
聖霊の禁

ところがパウロは聖霊によりアジア州で布教することを禁じられ(使徒16:6)、三度進路変更を強いられた。アジア州を地盤とする『解放された奴隷の会堂』との摩擦を回避するため、何れかの方面から横槍がはいったものと見られる。
第2回宣教旅行を終えシリアのアンティオキア教会に戻ったパウロは、席の暖まる間もなく前回果たせなかったアジア州における伝道に主眼を置き、3回目の伝道を開始した。(使徒18:23)
しかし、聖霊の禁を犯して決行したアジア州における布教は、パウロとエルサレム教会の関係を悪化させただけでなく、アンテイオキア教会の内部でさえ、バルナバ等との溝を深める結果を招いた。
逆鱗に触れたパウロ

パウロがエフェソに2年間滞在し、精力的に伝道を行ったため、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くようになった(使徒19:10)と≪使徒行伝≫は述べている。
つまりパウロは、未割礼のギリシア語を話す異邦人のみならず、割礼を受けたユダヤ人に対しても『モーセの律法に依らず、信仰によって義と認められるイエスの道(ローマ3:28)』を説いたのである。
いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々のみならず、エルサレム教会の主流派や、さらには勅許状を与え、ダマスカスにおけるパウロの布教の後ろ盾を務めたハナン家(アンナスやカイアファ等の大祭司一族)も、こうしたパウロの行為は、第1回使徒会議の合意を逸脱するものと受け止めたに違いない。
ユダヤ人の陰謀と一大援護団

エフェソの騒動が収まった後、マケドニアに旅立ったパウロは、さらに南下、クリントスに3ヶ月滞在し、そこからシリア州に船出しようとしたが、ユダヤ人による陰謀を察知したため、またマケドニアに戻り、≪使徒行伝≫の著者ルカと一緒に、フィリピから船出し、アナトリア半島西端の港トロアスに渡った。
≪使徒行伝≫はユダヤ人の陰謀の具体的内容を明らかにしていないが、恐らくパウロは、第一回使徒会議の合意を逸脱したアジア州における布教問題を巡り、エルサレム教会もしくは大祭司から召喚状を受け取り、命の危険に晒されるほどの状況の変化がエルサレムで生じたことを察知したものと見られる。つまりペテロや小ヤコブばかりでなく、バルナバやマルコの支援も期待できない孤立無援の状況に陥る恐れがあったため、マケドニアに戻りルカと対策を協議、その結果、マケドニアのルカ、ベレアのソパトロ、テッサロニケのアリスタルコおよびセクンド、デルベのガイオ、ルステラのテモテ、アジア州のティキコおよびトロフィモ等、各地の信徒代表から成る一大援護団を組織、彼らを引き連れてエルサレムに乗り込む方針を決めたものと見られる。
惜別の辞

パウロはミレトスに参集した長老たちに「今、わたしは、『霊』に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、わたしは、あなたがたに御国を宣べ伝えたこのわたしの顔をあなたがたの誰一人も二度と見ることがないことを分かっています。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と、まるで死地に赴くような悲壮な決意を披瀝するとともに、「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」と、エルサレムから派遣される宣教師達を残忍な狼どもと呼び、警戒するよう求めた(使徒20:18-31)。
人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った(使徒20:37-38)。

パウロは、一時代を終焉させたユダヤ戦争に向かって歯車が回転し始めたちょうどその時、随行団を引き連れ、小ヤコブの下に赴いた。その場に居合わせた長老たちは、パウロに『ナジル人の誓願』の立ち会い人を務め、4人の請願者に代わって儀式の費用を負担することにより、身の潔白を証明するよう提案。パウロは同提案を受け入れた。
ローマ兵がパウロを救出

七日間に及ぶ儀式がほぼ完了しようとした時、アジア州出身のユダヤ人たちが、「この男は、律法を無視するように至る所で説き、挙げ句の果てにギリシア人を連れ込んで聖所を汚した」と叫び、パウロを境内から引きずり出した。同時に神殿の扉は、一斉に閉じられ、パウロは暴徒により殺されかけたが、千人隊長クラウディウス・リシアに率いられるローマ兵が駆けつけ、パウロを救出した(使徒21:27-32)。
パウロが境内から引き出されると同時に、神殿の扉が全て閉じられたと言う記述により、使徒行伝の著者は、神殿警備当局と襲撃犯の間で、当初から襲撃の手はずが打ち合わせされていたことを暗示している。また仮に『ナジル人の誓願』をしたものの中にギリシア人が含まれていたとすれば、小ヤコブを初めとするエルサレム教会の長老たちも、この謀略に加わっていた可能性がある。しかし間髪を入れず、ローマ兵が駆けつけ、パウロを救出したことから、パウロの側もそのことを予期して準備を整えていたものと見られる。
皇帝に上訴

パウロに「お前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか(使徒21:38)」と尋ねた千人隊長は、群衆やサンヘドリン(最高法院)の議員にパウロがその考えを語る機会を提供しただけでなく、パウロ暗殺の陰謀を察知すると歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人から成る護送隊を組織し、パウロをカエサリアのフェリクス総督の下に送り届けた(使徒23:33)。
結局、パウロはカエサリアで2年間拘留されたが、友人達と交流する自由を認められた。その後、パウロは海路ローマに護送されたが、ルカを初めとするヘレニスト信者が随行しており、パウロは一囚人として護送されたのではないことが窺える。パウロは皇帝への上訴を口実に、ローマにおける布教と言う当初の目標を達成した。
安息

≪使徒行伝≫は、その最終節において「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」とのべているが、ローマ到着の二年後、おそらく西暦60-62年の間に殉教したものと見られる。≪パウロ行伝≫によると、パウロはローマ市民権を保持していたため、裁判の結果、奴隷や重犯罪者などに対する『磔(はりつけ)』ではなく、斬首刑に処せられたと言う。
しかしペテロは西暦64年頃、ローマで磔に処せられたようだ。また小ヤコブは、大祭司との関係悪化から、西暦62年にエルサレムで石打の刑に処せられた。
ローマに飛び火したヘレニストとヘブライストの対立

ローマ教会が西暦96~97年頃、コリント教会に書き送った『クレメンスの第1の手紙』は、ペテロがローマにやって来ると、二人の使徒の対立から、ローマ・キリスト教会の内部に極めて険悪な緊張状態が生じたことを、示唆していると言う。
クラウディウス帝は西暦49年に、全てのユダヤ人にローマ市内から退去するよう命じた。ユダヤ人のローマ市内からの追放は、これ以前にも少なくとも2回行われており、早くも紀元前139年に過度な布教活動を理由に追放令が発せられた。そして西暦19年にもティベリウス帝が同様の理由でユダヤ人を市外に追放している。しかしパウロがローマに到着した西暦59年頃にも依然として強固なユダヤ教徒のコミュニティーが存在したようだ。おそらくこうしたユダヤ教徒の大多数は異邦人、言い換えれば未割礼のユダヤ教徒だったものと見られる。つまり、パウロがエルサレムで行ったヘブライストとヘレニストの棲み分けの真逆の実験がローマでは過去188年間に少なくとも3度行われ、エルサレムに純粋なヘブライストのキリスト教会が誕生したように、ローマにはヘレニストのユダヤ教徒コミュニティーが出現したものと見られる。
このためパウロが説く『モーセの律法に依らず、信仰によって義と認められるイエスの道(ローマ3:28)』が受け入れられやすい環境が整っていた。しかし、その後再びユダヤ人がローマ市内に帰還し、エルサレム教会もペトロを初めとするヘブライスト宣教師をローマに派遣したため、パウロとエルサレム教会の対立が再燃したようだ。
和解

キリスト教会内における、ヘブライスト信者(割礼派)とヘレニスト信者(非割礼派)の対立はパウロの死やエルサレム教会の消滅後も持続、このため、ローマン・カトリック教会は、初代教皇に、パウロでも、小ヤコブでもない、ペテロを叙したものと見られる。とは言え、キリスト教会は、こうした敵意や対立を乗り越え、4世紀以来、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4福音書を新約聖書の正典として来た。
ところで、パウロの直弟子テウダからパウロ神学の『奥義』を学んだと称するウァレンティヌスは、バレンティーノ・グノーシズムの名称の起源になり、イエスの弟義人ヤコブの弟子マリアムネから『奥義』を学んだとされるナアセノス派は、教父ヒッポリュトス(170?-235)から最初期のグノーシス派と見なされた。そして、小アジアのスミルナに生まれ、リヨン司教も務めたキリスト教創成期の教父エイレナイオス(130?-202)は、『マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネ四福音書』こそが教会の四つの柱であると力説する一方で、その著『異端反駁』においてグノーシス派の『ユダの福音書』等を偽書であり異端であると断罪している。

『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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