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『契約の民の流浪史』スライドショー第七話:ユダヤ教の誕生と東方伝播

<スライドショー第七話>
ギルガルの割礼
モーセとともにエジプトを脱出したユダヤ人は40年間シナイの荒野をさまよう間に全員死に絶えた(ヨシュア記5:6)。このため、モーセから後継者に指名されたエフライム族の指導者ヨシュアは、ヨルダン川東岸に定住していたルベン、ガド、マナセの半部族の戦士4万人を含むイスラエルの全べての民を西岸に渡らせた後、ギルガルで全員に割礼を施すよう命じた(ヨシュア3-5章)。
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旧約聖書ヨシュア記の以上の記述は、ヨルダン川西岸のカナンを征圧した遊牧民は、モーセに率いられエジプトを脱出したユダヤ人とは異なる未割礼の非ユダヤ人であったことを示唆している。
古モンゴロイド

イスラエルの失われた10部族の帰還援助組織アミシャーブによると、この頃、ヨルダン川東岸に定住していたエフライム族とマナセ族は、日本列島先住民の縄文人やチベット人に特徴的な『Y染色体D』系統の遺伝子を保持する古モンゴロイド(Paleo-Mongoloid)に属し、両部族の始祖エフライムとマナセの父親ヨセフを含むヤコブ(別名イスラエル)の十二人の息子の子孫とは異なる遊牧民だったらしい。
仮にヨルダン川東岸に定住していた古モンゴロイド系遊牧民が、西岸に攻め入り、ユダヤ教に集団改宗しなかったなら、古代イスラエル王国の建国やモーセ五書の成立もなかったことだろう。
出エジプトとカナン征服の時差

注目すべき点はモーセは120歳、ヨシュアは110歳で没しており、恐ろしく長命だったこと。このことは、出エジプト伝説とカナン征服伝説のベースになった紀元前13世紀末頃の二つの史実には二世代乃至三世代の時差存在したことを暗示している。加えてヨルダン川東岸の遊牧民が西岸の農耕民の都市国家を征服した過程は数世代にわたったものと見られ、紀元前900年代に、ソロモンの宮廷で、旧約聖書のこの部分が作成された際、旧約聖書の編者は、これら二つの事件を二人の英雄(モーセとヨシュア)の事績にするために、二人のみならず両伝説の登場人物が皆そろって長命だったことにして、辻褄を合わせたのだろう。
文書仮説

旧約聖書の誕生を巡り18世紀から19世紀にかけて成立した『文書仮説(ぶんしょかせつ: Documentary hypothesis)』によれば、モーセ五書(トーラー)は一人の作者つまりモーセにより作成されたものではなく、何世紀にもわたり、多くの人の手で作成された文書群からなっている。
ドイツの神学者ユリウス・ヴェルハウゼン(Julius Wellhausen:1844-1918)によると、『ヤハウィスト(Jahwist)』は最古の文書で、紀元前900年代に、ソロモンの宮廷で作成された。『エロヒスト(Elohist)は紀元前8世紀のイスラエル北王国において作成され、編集者によりヤハウィストと結合されJE文書を形成した。三つ目のソースは、ヨシヤ王の治世中の紀元前7世紀(紀元前620年以前)に成立した申命記である。そして『祭司資料(Priesterschrift)』が祭司と神殿が支配した時代、紀元前6世紀に作成された。
ヤハウィストはユダ王国における神の呼称にちなんだ聖書編集者の仮の名で、エロヒストはイスラエル北王国における神の呼称にちなんだ聖書編集者の仮の名である。祭司資料は、申命記を除く五書中の律法に関する文書資料で、ヴェルハウゼン氏は紀元前550年頃のバビロン捕囚以降に書かれたと見ている。
出エジプトの考古学的記録

テレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によれば、紀元前13世紀末にイスラエルの民がエジプトを脱出し、モーセの後継者ヨシュアがカナンを征圧した当時、カナンは依然としてファラオ(第19王朝BC1293-BC1185、第20王朝BC1185-BC1070)の支配下にあり、エジプトの書記官はカナンを含む国内の些細な事件も記録にとどめているが、イスラエルの民がエジプトに居住していたとか、反乱を起こしたとか、エジプトを脱出したとか言う記述は全く存在しないと言う。
モーセは、エジプトの官吏が無視するほど少数の主にレビ族とヨセフ族から成る同族を率いてカナンに移住を試みたものの、40年間シナイ半島を彷徨する過程で全員死に絶えた。とは言え、メソポタミアからエジプトに至る地域には、イスラエルの十二部族に類した伝説を共有する遊牧民が存在し、彼らの間にモーセの出エジプトに纏わる伝説も共有されていたのだろう。
集団改宗

エフライム族とマナセ族は相携えてヨルダン川西岸に攻め入ったものの、両部族だけでは、農耕民の都市国家に太刀打ちできないため、ユダヤ教に集団改宗することにより、ルベン族やガド族を含むイスラエルの十二部族の協力を得ることを思い立ったものと見られ、そして、ソロモンの宮廷で旧約聖書のこの部分が作成された際、ヨセフがエジプトでマナセとエフライムと言う二人の息子をもうけた話やモーセがエフライム族のヨシュアを後継者に指名した話が挿入されたのだろう。


ユダヤ教の誕生
もし両部族が、ヨルダン川西岸に攻め入らず、ユダヤ教に集団改宗もしなかったなら、モーセの出エジプトの事績は忘れ去られ、古代イスラエル王国の建国もモーセ五書の成立もなかったに違いない。
ギルガルでイスラエルの民全員に割礼を命じたとされるヨシュア(あるいはヨシュアに擬えられるエフライム族の複数の指導者ら)は、ユダヤ人の発祥や出エジプトの伝説を掘り起こし、ユダヤ教の基礎を築き、単一の始祖アブラハムと神との契約に基づく祭政一致の部族聯合を組織したものと見られる。

ユダヤ教の東方伝播と第一次大和政権
最近の遺伝子学的調査によれば、エフライム族やマナセ族と同じ『Y染色体D2』遺伝子を保持する縄文人の祖先は、1万6500年前頃までにサハリン経由で日本列島に渡来したらしい。
恐らく、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、ヨシュアがカナンを征服する以前から、日本列島の住人と交流していたエフライム族は、イスラエル北王国の滅亡後、ユダヤ教を携えて渡来、饒速日尊の第一次大和王朝の建国に寄与したものと見られる。
マナセ族と第二次大和政権

他方、北九州筑紫の高千穂の嶺に降臨した天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)を始祖とし、第一次大和政権を接収して、第二次大和政権を建てた神武天皇は、日本書紀や古事記の記述によると、新羅王朝の始祖とされる稲飯命(いないのみこと)を兄とすることから、朝鮮系豪族の統領であったらしい。
またマナセ族の末裔と見られるキリスト教徒の秦氏は、日本に渡来する以前に新羅に逗留していたようだ。新羅は聖徳太子の時代に景教の『三一妙身』の教義を象徴する手の形をとる弥勒菩薩半跏思惟像を日本に献上している。
室町初期に編纂された『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』にると、継体天皇の子の安閑天皇には豊彦王(とよひこのみこ)と言う皇子がおり、豊彦王は秦河勝と同一人物としている。だとすれば、継体天皇もまた、秦の始皇帝の末裔とされる秦氏一族だったことになる。
これらの事実から、発足当初の第二次大和政権は、マナセ族と浅からぬ関係を有していたものと思われる。

神道の起源
『先代旧事本記』によると聖徳太子は中臣鎌足の父親中臣御食子(なかとみのみけこ)から『宗源神道(そうげんしんとう)』と言う神道を学んだ。『宗源神道』は「一の大神を伝える。これが宗源(もとつみもと)の道である」とされ、籠神社(このじんじゃ)の海部穀定(あまべよしさだ)宮司もその著『元初の神大和朝廷の始元』の中で、「日本書紀や古事記が成立した8世紀より前の日本の神道は、一神教的神道だった」と指摘している。
ちなみに秦氏が多く住んだ京都の太秦(うずまさ)に関して、早稲田大学の故伯好郎教授は「『うずまさ』はアラム語の『イェシュ・メシアッハ』から派生したもので、『イエス・メシア』を意味する」と述べている。秦氏は同地に広隆寺を建てたが、それは仏教寺院ではなく、キリスト教的神道の礼拝所で、東方キリスト教会における三位一体のシンボルと同じ手の形をしたくだんの弥勒像が安置されている、と日本キリスト教団池袋キリスト教会初代牧師を務めたプロテスタント系聖書解説者の久保有政氏は指摘する。
聖徳太子は607年に『敬神の詔』を発しており、基本的には神道に立ち、儒教・仏教・神道の融和を図ったものと見られる。
明治天皇は仁内親王に「神道は元々ユダヤ教として日本にもたらされたが、後に原始キリスト教に集合された」と語られたと言うことから、その時天皇家はユダヤ教から原始キリスト教に改宗した可能性がある。また『原始キリスト教』とは、『割礼』を含むモーセの律法に忠実なヤコブ派を指しているのではないだろうか。
『排他的一神教』の止揚

さて、カナンの地を目前にして死んだモーセは、臨終に際して書き残した『申命記』の中で、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申6:4-5)。」と述べている。つまり多くの神が存在するが、イスラエル人はただ一人の神を信じなければならないというのである。彼は『唯一絶対の神』を想定していた訳ではない。
テルアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授はこれを『排他的一神教』と評した。キリスト教も当初は『排他的一神教』を引き継いだが、『主なるヤハウェ』と『子成るイエス』そして『聖霊』の『三位一体』の概念が形成される過程で唯一絶対の神を想定するようになったものと見られる。
他方、東方に向かいインドの仏教や中国の儒教あるいは道教に接した景教徒たちは、アブラハムの一族がカナンの土着の一神教に同化したように、仏教、儒教、道教と共存する新たな信仰形態を創造したようだ。秦氏が日本全国に展開した神社群はその精華と言える。
ユダヤ民族は元々、アブラハム、イサク、ヤコブ等、十二乃至十四の部族の異なる始祖神を氏神として祭っていたが、モーセ(実際にはヨシュア)は単一の始祖アブラハムと神との契約に基づく祭政一致の部族聯合に再編し、農耕民の都市国家を転覆する一大戦略を建てた。
聖徳太子は、この戦略に倣って秦氏の協力の下に、日本全国の八百万の氏神を共通の始祖神天照大御神の御稜威(みいつ)に帰せしめることを通じ万世一系の天皇制の構築を図った。とは言え、エジプトの聖牛信仰やカナン土着の偶像崇拝を包摂した北イスラエル王国のユダヤ教は、それより遙か以前に天孫族により日本にもたらされていたのかも知れない。
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か

ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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