書評:聖霊のバプテスマ(万法帰一)
仮庵(かりいお)の祭が近づいたためひそかにエルサレムに赴いたイエスは、祭も半ばになってから、宮に上って教え始められた。「私は、もうしばらくあなたがたと一緒にいて、それから、私をおつかわしになった方のみもとに行く。あなたがたは私を捜すだろうが、見つけることはできない。」
そこでユダヤ人たちは互いに、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしいてるのだろう。ギリシャ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシャ人を教えようというのだろうか。また、『私を捜すが、見つけることができない。そして私のいる所に来ることができない』とは、どういう意味だろう」(ヨハネ7:33-36)といぶかった。
イエスの所在は人類共通の公案
ヨハネ福音書は、「初めに言葉(理)があった。言葉は神と共にあった。言葉は神そのものであった。彼(イエス)は初めから神とともにあった。彼から全てのものが生じた。この世に存在するもので、彼から生まれなかったものは何も無い」(ヨハネ1:1-3)と、大宇宙を貫通する言葉が、イエスの実体であることを冒頭で示した後で、全編を通じて十字架に処せられたイエスは一体どこに帰ったのかと言う大公案を提起しているが、最後の晩餐の席で、イエス自身がその謎解きをしている。
万法帰一、一何れの処にか帰す
唐代末期、河北省趙州の観音院に住した趙州従諗禅師(778-897)に、一人の僧が、「すべてのものは一に帰る(万法帰一)というが、その一はどこに帰るのか」と尋ねた。すると趙州和尚は、「わしが青州におったとき、一枚の布衫(麻の衣)を作ったが、その重さは七斤だった」と答えた。
仏教徒は、この世の一切の存在が因縁によって生じ、また因縁によって滅すると考え、宇宙を貫通するこの理そのものを法性と称する。『万法帰一』とは、法性から生起した万象が、再び法性に帰り、寂滅する道理を説いている。
この学僧は、こうした『万法帰一』の道理を承知した上で、「それなら、その一は、法性どこに帰するのか」と、理屈などではない、悟りの神髄について趙州和尚に証しを求めた。換言すれば、聖霊のバプテスマを請うたのである。学僧の思いを見抜いた趙州和尚は、洒脱に「青州におったとき、一枚の布衫を作ったが、重さは七斤だった」と答えた。圜悟録によれば、その後、蒋山禅師に同じ質問をしたものがあったが、蒋山禅師は、「腹がへったら飯を食い、眠くなったら眠る」と答えたと言う。
臨済は、「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)あり。常に汝ら諸人の面門(めんもん)より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。道流(どうる)、仏法は手練手管を用いない。あるがままである。大小便をし、寒ければ纏い、腹が減れば食らい、眠くなったら寝るだけだ」と説いている。
イエスの謎解き
イエスは最後の晩餐において、十字架計画の真意を十二使徒達に次のように説き明かした。
しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。(ヨハネ16:7)
その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。 わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである。(ヨハネ16:23-28)
(参照)
最後の説教を終えた後、イエスは弟子たちから少し離れた場所で、さらに次のように神に祈を捧げた。
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハネ17:11)
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにおり、彼らは完全に一つになり、世界は、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを知るでしょう。(ヨハネ17:23)
(参照)
無一物、無尽蔵
中国宋朝(960-1279)の文人政治家蘇東坡(1037-1101)は、「紈素(がんそ)画(え)かず、意高き哉(かな)、若(もし)丹青(たんせい)を著(つ)くれば二に堕し来る。無一物(むいちぶつ)中、無尽蔵(むじんぞう)、花あり月あり楼台あり」と述べている。
人類が国益や宗派意識を捨て、一旦無一物の境地に立ち返るなら、世界の各国民、各民族、各宗教、そして無神論者も、無尽蔵の利益を見出すにちがいない。
インドのナレンドラ・モディ首相が、最近、訪印した中国の習近平国家主席にラダックにおける中国側の侵犯問題を取り上げた際、習主席は、両国の平和と繁栄のためにより高次元の戦略的協力関係をインドとの間に築く希望を表明した。
(参照)
両首脳の以上の対話は、領土紛争や宗教紛争が過熱する世界の現状を打開する道を示している。
それぞれ対立する国家、民族、宗教が、互いの主張をぶつけ合っても解決策を見出すことはできない。幕末に、敵対する薩摩と長州が薩長同盟を結んだ結果、徳川幕府が瓦解しただけでなく、薩摩も長州も消滅し、統一国家日本が誕生し様に、インドと中国がその他の諸国と協力して国連改革に乗り出すなら、インドも中国もない世界連邦がそう遠くない時期に誕生するかもしれない。その時には、中印国境紛争ばかりでなく、中東紛争も尖閣、竹島問題も解決するにちがいない。
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。(キリスト教の起源p.155)
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【参照】
碧巌録第45則 万法一に帰す、一何れの処にか帰す
挙す、僧、趙州に問う、万法一に帰す、一何れの処にか帰す。州云く、我青州に在って、一領の布衫を作る。重きこと七斤。
無位の真人(臨済録)
赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)あり。常に汝ら諸人の面門(めんもん)より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。道流(どうる)、仏法は用巧(ゆうこう)の処無し。祗(ただ)是れ平常無事、あ屎送尿(あしそうにょう:大小便)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困し来たれば即(すなわち)臥す。愚人は我を笑う、智は乃(すなわ)ち焉(これ)を知る。古人云く、外に向かって工夫を作す、総に是れ癡頑(ちがん)の漢(かん)、と。汝、且(しばら)く随処に主となれば、立処皆真なり。境来れども回換(えかん)することを得ず。縦(たとい)従来の習気(じっけ:過去の煩悩の余習)、五無限の業無限地獄に堕ちるべき罪業有るも、自ら解脱の大海と為る。
人は皆、無位(自由無碍)の真人を保持しており、面門(眼、耳、鼻、口、毛穴等)より出入りしている。諸君、仏法は手練手管を用いない。あるがままである。大小便をし、寒ければ纏い、腹が減れば食らい、眠くなったら寝るだけだ。愚人は笑うが、智者はそこのところが分かる。古人も述べているように、外に向かって工夫をこらすのは愚の骨頂だ。外境は換えられないが、随所に主となれば、立処みな真となる。そうすることができるなら過去の煩悩の余臭紛々とし、無限地獄に堕ちるべき悪行の限りを尽くした者でも、解脱の大海に遊ぶことができる。
趙州/臨済系図
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