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罪祭の羊Ⅱ

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ヨセフとマリアが乳飲み子を携えてアフリカにわたってから三十有余年が経過した西暦28年ユダヤ暦11月、洗礼者ヨハネの証言を聞くため、サンヘドリンから派遣された祭司とレビ人の代表がエルサレム郊外のベタニヤに参集した(ヨハネ1:19)。
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<スライドショー:罪祭の羊Ⅱ>


第三部:奔流
ヘロデ大王と熱心党
セレウコス朝シリアの支配を覆し、神殿を清めた祭司マタティアスのひ孫でありながら、ヘレニズム文化を大々的に吸収する近代化政策を推進したハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオス王はアンティパス将軍をエドムの長官に任命した。同将軍の息子アンティパトロスは、紀元前47年にガイウス・ユリウス・カエサルからローマのユダヤ地区統治代理人に任命された。カエサルはそれ以前の紀元前63年にイスラエルを占領していた。
アンティパトロスは、2人の息子ファサエロスとヘロデをそれぞれエルサレムとガリラヤの総督に任命した。紀元前43年にアンティパトロスは毒殺されたが、二人の息子は紀元前41年ローマの将軍マルクス・アントニウスからそれぞれ領主(tetrarch)の地位を認められた。
紀元前40年、ハスモン朝の末裔アンティゴノスⅡ世マティアスがパルティアの支援を得てファサエロスとヘロデの支配地へ侵攻、ファサエロスを殺害、国王と大祭司の職を兼務し、ハスモン朝を再興した。ローマに逃亡し、ローマ元老院から『ユダヤ人の王』の称号を与えられたヘロデはアントニウスの支援を得て、エルサレムに進軍、紀元前37年にアンティゴノスを打倒し、ヘロデ王朝を樹立した。
ヘロデがまだガリラヤの知事であった時、ヒゼキアと言う者が反乱を起こした。この反乱はヘロデにより鎮圧されたが、エルサレムの最高法院(サンヘドリン)はかえってヒゼキアを義人と称賛したためヘロデは、窮地に立たされた。

大王と称されたヘロデが紀元前4年に亡くなると、3人の息子が国土を分割統治したが、ハスモン朝の末裔を自称するヒゼキヤの息子ユダが、セッフォリスの住民を扇動して、ローマに反旗を翻した。しかしシリア総督プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスにより鎮圧され、ユダは逃走した。
ヘロデ大王の長男アルケラオの失政から西暦6年にユダヤ地方がローマの直轄地になると、これに反抗して西暦7年に再びガリラヤのユダが蜂起、セッフォリスに攻め入り、武器庫と王宮を荒らした。しかし結局鎮圧され、仲間2000人と共に十字架に処せられた。
『ユダヤ戦記』の著者フラウィウス・ヨセフスによると、この時、『ガリラヤのユダ』と称するものが、ユダ地方の民衆にローマに税を払わぬよう説き、組織した秘密結社が『熱心党(ゼロテ)』と言う。ファリサイ派の律法学者でもあったユダにより率いられたハシディームの流れを汲む熱心党を、ヨセフスは、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派と並ぶユダヤの第四哲学と称した。なお洗礼者ヨハネと緊密な関係を有したとされる死海のほとりクムランを拠点に活動したクムラン教団も、熱心党やエッセネ派同様、ハシディームの流れを汲む宗教、政治結社と見られる。
ガリラヤのユダが息子のヤコブおよびシモンと共に反乱を起こした当時、イエスは十歳前後だったと見られるが、母マリア`は、イエスの三人の弟に、紀元前2世紀にギリシア人を追い出し、神殿を清めたマカベア家にちなんだヤコブ、シモン、ユダと言う名をつけており、内一人は熱心党員だった。またイエスと言う名は、エジプトを脱出したユダヤ人を最終的にカナンの地に導いたモーセの後継者ヨシュアのギリシア語訳で、『ヤハウェは救い』を意味した。
総督ピラトと大祭司カイアファの密議

ユダヤ総督に就任したポンティオ・ピラトは、頻繁に大祭司カイアファアを総督府に招き、ローマ帝国各地の異邦人ユダヤ教徒の動向やユダヤ教徒各派の国内における反ローマの動きに対する対策を協議した。
そこでカイアファは、『解放された奴隷の会堂(Synagogue of the Freedmen-Jews)』のリーダー、サウロ(後のパウロ)に、異邦人ユダヤ教徒に関する情報収集をゆだねるとともに、ダビデの後裔として大祭司のみに許されていた神殿の聖所に入り、その所属するコミュニティーのために祭儀を執り行っていたナジル派の祭司ヤコブ(イエスの弟)に国内ユダヤ教各派の動静を探らせた。
ピラトの来歴

ローマ皇帝ティベリウスにより、西暦26年に属州ユダヤの総督に任命されたポンティウス・ピーラートゥス(ピラト)は、イタリア南部のサムニウム人で、騎士階級の下級貴族ポンティ家の出身だった。執政武官(副司令官)として入隊後、昇進して、30歳になる前に総督に任じられた。たいていの長官たちに比べ、はるかに長い10年間も総督の職を務めたことから、武官としても、地方長官としても、相当優秀だったに違いない。
ピラトと同じ騎士階級の長官たちは、たいてい未開の地へ派遣され、治安の維持の他、種々の間接税や人頭税の徴収の監督もしたと言う。
ピラトは、当然ながらローマ皇帝の肖像を描いた軍旗を掲げてエルサレムに入城したが、偶像崇拝を否定するユダヤ人達は、カエサリアのローマ総督府を取り囲み抗議した。ピラトは、5日間これを無視したが、6日目になって「解散しなければ処刑する」と警告した。しかしユダヤ人が「たとえ処刑されても、律法に反することは認められない」と反駁すると、ピラトは軍旗を掲げることを止め、群衆と和解した。
ユダヤ人のエルサレム神殿への献金の一部は、公共事業に合法的に用いることができた。そこでピラトは、神殿貴族らの協力を得て、積極的にエルサレムの治水事業を推進した。ところがユダヤ人達は、ピラトが神殿の宝物をかってに流用したと抗議、騒乱を起こした。ピラトは、兵士らに剣の代わりに、棍棒を持たせ、暴徒を鎮圧させた。
この時期、ユダヤでは騒乱や反乱が頻発しており、大規模な反乱が生じた際には、複数の軍団の指揮権を持つ、皇帝直属のシリア総督に頼ることができた。ところが、ピラトの在職中のかなりの期間、シリア総督が不在だったことから、騒乱が起きた場合は、配下の限られた兵員で迅速に処理せねばならなかった。
また、皇帝の威信やローマの権威を脅かす問題は皇帝に報告しなければならず、自分が管轄する属州で発生した事件については、他から苦情が申し立てられる前に皇帝に釈明する必要があった。下級貴族の身でこれらの難題を処理したピラトの心労は察するにあまりある。
大勢のサマリヤ人がケムリジ山に集結したとの情報を得たピラトは、騒乱を未然に防止するため兵士を派遣して鎮圧させた。これらの群衆は、モーセが埋めた財宝を発見するのが目的だったとされるが、兵士は、かなりの群衆を殺傷したようだ。憤激したサマリヤ人は、ピラトの上司に当たるシリア総督ルキウス・ウィテリウスに直訴した。ウィテリウスはピラトに、ローマに赴き皇帝に釈明するように命じた。しかし、ピラトがローマに到着する前にティベリウス帝は死去した。その後のピラトの動静は定かでない。自殺したとも、クリスチャンになったとも、故郷の南イタリアに戻り余生を過ごしたとも伝えられている。
大祭司カイアファの大望

そもそもの発端は、海外で爆発的に増加した異邦人ユダヤ教徒による教会運動の波が、ユダヤ教の総本山エルサレムに押し寄せたこと。加えて旧約≪ダニエル書≫の70週の預言に基づく救世主来臨の期待が高まり、イスラエル再興を目指す政治結社や宗教諸派の活動も活発化した。こうした潮流を背景に内外のユダヤ教徒を統括する新組織を創設する計画が醞醸したものと見られる。
西暦32年のペンテコステ(五旬節)に大祭司カイアファの屋敷に隣接したエッセネ派の集会所で新組織を発足させる計画は、エッセネ派を初めとするイスラエル国内のユダヤ教徒諸派や海外の異邦人ユダヤ教徒の間で、イエスが処刑されるよりかなり以前に持ち上がっていたに違いない。さもなければ地中海沿岸各地の異邦人ユダヤ教徒が参集することなどあり得ない。
早い時期にこうした動きを察知した大祭司カイアファは、ユダ族とレビ族双方の血を引くナジル派の司祭として、大祭司のみに許された聖所における祭儀を執り行っていたイエスの弟ヤコブを新組織のトップの座に据えることを思いついたものと見られる。

テレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によると、最盛期にはローマ帝国の人口の7~8%がユダヤ教徒で占められたと言う。紀元前1世紀に生きていたユダヤ人の数を最も多く見積もったサロー・バロンによると、その数は800万人に達した。誇張された数字でにわかには信じがたい。しかしアルテュール・リュパンやアドルフ・ハーナックが提案したように、この推定の半分、すなわち400万人とすれば、より現実的な数字と思われると、サンド教授は述べている。
他方、初代ローマ皇帝アウグストゥスの葬儀碑文によると、アウグストゥス治世下の国勢調査は紀元前28年、同8年、そして西暦14年に都合三度行われたようだ。三回の国勢調査の対象はローマの市民権を有する者だけで、結果は次の通りだったと言う。紀元前28年:406万3000人、紀元前8年:423万3000人、紀元後14年:493万7000人。
つまり教会運動の取り込みに成功すれば、数の上から大祭司はローマ皇帝に匹敵する影響力を保持することができた。
70週の預言

当時、旧約≪ダニエル書≫のいわゆる『70週の預言』に基づき、アケメネス朝ペルシャのアルタクセルクセス1世がエルサレムの再建を指示した紀元前445年から数えて483年目、したがって西暦33-34年頃に救世主が出現しイスラエルを再興すると言う期待が高まっていた。そしてこの機に乗じてエルサレムに異邦人ユダヤ教徒の教会運動を統括する新組織を立ち上げる計画が醞醸した。
大祭司カイアファは何とかこの新組織を、自らが議長を務める最高法院(サンヘドリン)の傘下に置くため、ユダヤ総督ピラトやヘロデ王家と協議する一方、ユダヤ教各派や異邦人ユダヤ教徒各派の根回しをナジル派祭司のヤコブや解放された奴隷の会堂指導者のサウロに指示した。こうしてベタニアにおける洗礼者ヨハネの証言がアレンジされたものと見られる。
イエスのエルサレム宗教界デビュー

ヨセフとマリアが乳飲み子を携えてアフリカにわたってから三十有余年が経過した西暦28年ユダヤ暦11月、洗礼者ヨハネの証言を聞くため、サンヘドリンから派遣された祭司とレビ人の代表がエルサレム郊外のベタニヤに参集した(ヨハネ1:19)。ヨハネは彼らに「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中にたっておられる。その方がわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつひもを解く値うちもない」と語った(ヨハネ1:26-27)。この記述からすると、イエスはサンヘドリンから派遣された祭司やレビ人の代表団の一員に含まれていたようだ。こうしてエルサレム宗教界の表舞台にデビューしたイエスは、その1ヶ月後の過ぎ越の祭りに、弟子達とともに神殿に赴き、商人らを神殿から追い払い(ヨハネ2:13-25)、そのままユダ地方にとどまると、聖霊のバプテスマを施す活動を開始した(ヨハネ3:22)。

≪ヨハネ福音書≫の以上の記述から、神殿の商人を追い出したイエスの行為は明らかに、マカバイ戦争でエルサレム神殿をギリシア人から奪回したハヌカの故事を念頭に計画されたもので、ハシディームの流れを汲む洗礼者ヨハネの弟子だった大ヤコブ/ヨハネ兄弟やペテロ/アンデレ兄弟、さらには原理主義グループ、ナジル派のリーダー小ヤコブやその弟達の思想信条が反映されている。しかし旧約の創造神を否定し、『本来の自己を覚知することにより究極の救いが得られる』と説く『Q語録(トマス福音書)』のイエスの教えとはかけ離れている。しかし、イエスは、ベタニアで洗礼者ヨハネの証言を通じてエルサレム宗教界にデビューした時点で、『宮の清め』を断行しイスラエル再興運動の象徴としての役割を務めるだけでなく、罪祭の羊として十字架にかかることを決意したものと見られる。
浄めの論争

ヨハネ福音書は、『ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで論争が起った(ヨハネ3:25)』、『イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、ファリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた(4:1-3)』と言う出来事を紹介するとともに、『しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった(ヨハネ4:2)』と注釈をつけている。洗礼者ヨハネの弟子達と論争した『一人のユダヤ人』とは、福音書作者のヨハネ自身だったのではなかろうか。正典福音書は、ペテロ、大ヤコブ、そしてヨハネの三人を、イエスの布教活動を支えた側近として描いている。

イエスはその後、ガリラヤ湖北岸の町、カペナウムの会堂で『聖霊のバプテスマ』の真髄を次のように解き明かした。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされた、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べて死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。これを聞いた弟子たちの多くの者が、「これは、ひどい。だれがそんなことを聞いておられようか」と言って、イエスの下を去り、二度とイエスと行動を共にしなかったと言う(ヨハネ6:53-66)。
解放された奴隷の会堂

大祭司カイアファは、ナジル派の祭司小ヤコブと『解放された奴隷の会堂(Synagogue of the Freedmen-Jews)』のリーダー、サウロ(後のパウロ)を両輪として、ヘブライストを中核とする教会組織の創設を構想、サンヘドリンやローマ総督、及びヘロデ王家の同意も得たものと見られる。
英語版ウィキペディアの説明によると、『解放された奴隷の会堂』はローマから自由人の地位を獲得した、つまり、グナエウス・ポンペイウスによる紀元前63年のユダヤ征服によって奴隷にされたユダヤ人の子孫達の組織と見られると言う。しかしこの説明には若干疑問がある。何故ならユダヤ系解放奴隷が独自の組織をつくり、小アジアや地中海沿岸地域にその勢力を伸張させるには数百年を要したと見られるが、紀元前63年からパウロが聖霊の禁を犯してアジア州における布教を行った第三回宣教旅行までは、せいぜい100年の間隔しかないからである。ウィキペディアは、ローマの貴族や皇帝は、クリエンテス(郎党)を増やすために、あるいは農園その他のビジネスや財産の管理を委ねるインセンティブとして奴隷解放に熱心だったと述べている。換言すれば解放奴隷は当時のエリートで、ローマの市民権も手に入れることができたらしい。
他方、イエスの父ヨセフが、ルカ福音書の記述通りローマ市民にのみに義務づけられた国勢調査のため、ベツレヘムのエフラタで自身と乳飲み子イエスの登記を行ったとすれば、イエスもローマ市民権を保持していたことになる。加えて小ヤコブ同様、マリアの二番目の夫『アルファイ』の子とされ、ローマの徴税人を務めていたマタイのみならず、イエスの他の弟たちもローマ市民権を有した可能性がある。だとすればエルサレム教会が、その発足当初から『解放された奴隷の会堂』と緊密な協力関係を有したとしても不思議はない。
第四部:弟子たち
イエスの門人

テレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によると、当時、イエスの故郷ガリラヤは、住民の大多数を占めるイトゥレヤ人が支配していた。イシマイル人(アブラハムとエジプト人ハガルの間に生まれた長男イシマイルの子孫=アラブ民族)と称されるイトゥレヤ人の起源は定かでないが、おそらくフェニキア人もしくはアラブ系部族だったものと見られる。イエスの弟子の多くは、ガリラヤやギリシャの植民都市デカポリス(現在のヨルダン)の出身者で、ファリサイ派のみならず洗礼者ヨハネの弟子からまで、その振る舞いを咎められるほど、ユダヤ教の戒律や規則に疎かったようだ。したがってイエスの宗教活動には、ハスモン朝時代に大量にユダヤ教に改宗した新参ユダヤ人による宗教改革運動としての側面も存在するものと見られる。
4人一組の十二使徒の役割

4つの正典福音書では、十二使徒はすべて、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受けた後に弟子になった体裁になっているが、弟子になった経緯が記されているのは、洗礼者ヨハネの弟子だったと見られるゼベダイの兄弟とペテロとアンデレの兄弟そして、徴税人マタイとピリポおよびナタナエル(共観福音書のバルトロマイと同一人物か?)のみで、名前も一致していない。
正典福音書においてはゼベダイ兄弟の大ヤコブとヨハネ、そしてペテロの三人がイエスの側近と位置づけられ、これにペテロの弟アンデレを加えた4人が積極的に布教活動に参加していたようだ。
一方、アルファイの子ヤコブ(小ヤコブ)、徴税人マタイ、熱心党のシモンの3人は、ノースカロライナ大学宗教学研究所所長のジェイムズD.テイバー教授によると、どうやらいずれもイエスの弟だったようで、これに小ヤコブの息子のユダも加えた4人は、王族ダビデとレビ族アロンの血を引く正統な司祭階級として、神殿を拠点に活動していたものと見られる。
ティバー氏によると、義人ヤコブはアルファイの子ヤコブと同一人物で、≪マタイ福音書≫の著者とされるマタイは『アルファイの子レビ』とも記される。また義人ヤコブの殉教後、エルサレム教団の首座を引き継いだクロパの息子シモンは、熱心党のシモンと同一人物だったのだろう。なぜならギリシア語のアルファイはアラム語のクロパ同様二番目を意味し、マリアの二番目の夫を指し、恐らく最初の夫ヨセフの弟だったものと見られる。
残りのピリポ、ナタナエル、トマス、イスカリオテのユダは、正典福音書では、積極的役割を与えられておらず、共通点はこれら4人の名を冠した福音書は、何れも正統派からグノーシス主義を説く異端書の烙印を押されたこと。また、ピリポとナタナエルについては、≪ヨハネ福音書≫の描写は、イエスが二人を以前から知っていたことを暗示している。おそらくこれら4人は、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける以前のイエスと交わりを結んでおり、それは、≪トマス福音書≫の内容と時期的に一致するものと見られる。
ユダの出自

イスカリオテのユダは、イエスを売り渡し、十字架にかけた『裏切り者』の代名詞になっているが、彼の裏切りには不可解な点が数多く存在する。代表的なものは以下の三点。
<第一点>:イエスはユダが裏切ることを最初から知っていた。
「しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。(ヨハネ6:64)
<第二点>:ユダの裏切りは旧約聖書『詩編41章9節』の聖句を実現するために不可欠であるとイエスは弟子たちに説いている。
あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖句は成就されなければならない。(ヨハネ13:18)
<第三点>:イエスが栄光を受ける時、共にイスラエルの十二部族を裁かねばならない十二使徒の一人に何故裏切り者を選んだのか。
イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。 (マタイ19:28)
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イスカリオテのユダについて、≪ヨハネ福音書≫は、『イスカリオテのシモンの子ユダ』と紹介しており(ヨハネ6:71)、イスカリオテは、一般に、ヘブライ語のイスと地名カリオテから成り、カリオテ人、あるいはカリオテ出身者の意と解釈されている。カリオテはユダ(ジュディア)南部の町で、ヘブロンの南約10マイルにあるエル・クレイテインの遺跡がこの町とされる。同福音書はユダは教団の会計係を担当していたと述べている(ヨハネ13:29)。
裏切ることを最初から知っていながら、何故ユダを十二使徒の一人にしたのかと言う疑問の答えが、上記の第二の疑問点そのものとすれば、ユダはイエスが救世主になるために不可欠な旧約の聖句『詩編41章9節』を実現した最大の功労者と言うことになる。にも関わらず、イエスは≪マルコ福音書≫のなかで「たしかに人の子は、自分について(旧約聖書に)書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう(マルコ14:21)」とまで述べている。イエスはユダの功労により栄光を受けることが定まっていたが、ユダは未来永劫『裏切り者』の烙印を押され、決して救われることのないゲヘナ(地獄)に堕とされることが定まっていた。だから『生まれなかった方がよかった』と言うのか。
ちなみにキリスト教の教義では死者は一旦ハデス(黄泉)に赴き、最後の審判を待って、昇天する者とゲヘナ(地獄)に堕とされるものが決まる。カトリックには、死者が赴く先としてこの他に、パーガトリー(煉獄)と言う概念が存在するが、プロテスタント諸派はこれを認めていない。
もう一つ補足すれば、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』と言う『詩編41章9節』の聖句は、救世主がダビデの血筋から出現すると言う前提が無ければ無意味だが、過ぎ越しの祭りの1週間前に、ロバに乗り群衆を率いてユダヤの王としてエルサレムに入城し、その後処刑されるまでの数日間毎日神殿に赴き説教したイエスは、やはり詩編を引用し「ダビデは『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい(詩110:1)』と述べているが、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか(マタ22:43-45/マル12:35-37/ルカ20:41-44)」と語り、自分がダビデの子孫でないことを明言している。
神殿を拠点に活動した弟たち

小ヤコブや他のイエスの弟たちは、大祭司カイアファと手を携えて神殿を拠点に活動、異邦人ユダヤ教徒の教会運動を取り込む新組織を立ち上げる準備を進めていたものと見られる。
海外の400万人のユダヤ教徒が、独自に新組織を立ち上げるなら、人口80万のイスラエルの内、僅かにユダヤ地方の自治権を認められたサンヘドリンやその議長を務める大祭司は大きな脅威に晒される。それに引き替え教会運動を傘下に取り込むことができれば、大祭司カイアファとサンヘドリンの権威は格段に強化される。
ちなみに市民権を有するものを対象にした西暦14年の国勢調査によると、当時のローマ帝国市民の総人口は493万7000人だった。つまり教会運動の取り込みに成功すれば、数の上から大祭司はローマ皇帝に匹敵する影響力を保持することができた。
祭政一致の神権政治が行われたハスモン朝時代には、国王が大祭司を兼務していたが、ヘロデ大王の時代になると、大祭司とサンヘドリンは政治から完全に切り離された。ローマ帝国はヘロデ大王の死後、部分的に大祭司とサンヘドリンの権威を回復させ、その統治に利用していた。
ガリラヤのユダ等の反乱が続発する中、内外のユダヤ教徒を統括する新組織ができれば、政治の安定にも寄与することから、ローマ総督府やヘロデ王家も、大祭司カイアファやそれを補佐する小ヤコブの企てに注目していたに違いない。
小ヤコブは生まれながらのナジル人

『教会史』を著したギリシア人教父エウセビオス(260-340)やヘゲシッポス(90-180)はイエスの弟ヤコブに関して、洗礼者ヨハネのように、生まれながらの『ナジル人』であったと述べている。四世紀の神学者エピファニオスは、ヤコブが、ダビデの後裔として祭司のみに許されていた神殿の聖所に入り、その所属するコミュニティーのために祭儀を執り行っていたと述べている。
このコミュニティーは一般にイエスを信奉するナザレ派(Nazarean)と解されているが、それでは辻褄が合わない。何故ならイエスは『予言者は故郷に入れられず(マタイ13:57/マルコ6:4/ルカ4:24/ヨハネ4:44)』と述べ、ナザレではほとんど説教することがなかったからだ。スウェーデンの言語学者アルヴァル・エレゴール氏(1919–2008)は、ナザレ派(Nazarean)は、『ナツォレアン(Nazorean)』の誤記と見ている。エルマーR.グルーバー/ホルガー・ケルステン(Elmer R. Gruber & Holger Kersten)両氏の共著『イエスは仏教徒だった?(The Original Jesus - Buddhist Sources of Christianity)』によると、『ナツォレアン』は、『神の秘密を守るもの』と言う古代バビロニアのナツァル(nasaru)またはナツィル(nasiru)と言う言葉に由来し、洗礼者ヨハネも『ナツォレアン』と呼ばれていたと言う。
ユダは小ヤコブの替え玉?

実際のところイスカリオテのユダが実在した人物かどうかは、極めて疑わしい。正典福音書は何れも、イエスが十字架にかけられることは、最初から定まっていたと言う体裁になっているが、同時に苦杯を前にしてイエスが苦悶する複数のシーンを伝えており、またイエスは処刑後に、ガリラヤで再会することを弟子たちと約したが(マルコ14:28,16:7,マタイ28:7,10)、処刑の三日後に復活したイエスは、『エルサレムに留まれ』と言う別の指示を出したとされる(使徒1:4)。
つまり西暦32年のペンテコステの日に海外の異邦人ユダヤ教徒諸組織と国内ユダヤ教徒諸派を統括する新組織を立ち上げることまでは合意ができたものの、イエスや小ヤコブの処遇をどうするか、新組織を取り仕切るのは、圧倒的多数の異邦人ユダヤ教徒か、国内のユダヤ教徒か、と言った多くのセンシチブな問題を巡り各派のつばぜり合いが、処刑後も続いたものと見られる。
ところで、大祭司アンナス及びカイアファの下に護送されるイエスにペテロとともについて行った大祭司の知り合いのもう一人の弟子(ヨハネ18:15)とは、小ヤコブのことだろう。小ヤコブは、こうした交渉の前面に立っていたものと見られる。だとすれば、イスカリオテのユダの出る幕は、どこにもない。正典福音書の『十字架刑の筋書き』やその『神学的意味』の大部分は、『イスカリオテのユダの物語』も含め、恐らく小ヤコブの手に成るものと見られる。
イエスを『救世主=贖罪の羊』として十字架に架ける根回しをした張本人が、イエスの後継者としてエルサレム教会のトップに立つことはできない。そこで前半の悪役をイスカリオテのユダに委ねたのだろう。
彼の故に天と地とが生じた

弟子たちがイエスにたずねた。「私たちはあなたが私たちのもとから去られることを知っています。その後誰が私たちの上に立たれるのでしょう。」
イエスは言った。「あなた方は、あなた方がそのもとから来たところに、つまり義人ヤコブのもとに、行くでしょう。彼の故に天と地とが生じたからである。」(トマス福音書12節)
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過ぎ越しの祭りが近づいた頃、イスカリオテのユダが一人崇高な思いにふけっていると、イエスが彼に囁いた。「ほかのものから離れなさい。そうすれば王国の秘密を授けよう。お前はそこに行くことができるが、大いに嘆くことになるだろう。十二人が再びそろって神とともにあるために、誰かほかのものがお前にとってかわるからだ。」
ユダが言った。「あなたはいつそのことを私に教えてくれるのですか。そしてあの世代の偉大な光の日が明けるのはいつなのですか。」
しかし、ユダがそういうとイエスは彼から離れていった。
しばらくして、イエスはまた彼に語られた。「お前は十三番目となり、のちの世代の非難の的になり、かれらの上に君臨するだろう。最後の日々に聖なる世代のもとに引き上げられるお前を彼らは罵ることだろう。」
イエスはまたユダに語られた「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう。」
ユダが神殿で祈りを捧げていると、大祭司と律法学者らが近づき「お前はここで何をしているのか。」と質した。ユダは彼らが望むままに答え、そしていくらかの金を受け取りイエスを彼らに売り渡した。(ユダの福音書抜粋)
<以下次号>
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か

ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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