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書評:禅宗と景教(創造の時)

<スライドショー:創造の時>

神が語る『とき』、時間と場所が一体となり『こと』が生起する。これが神の創造の『とき』であり、この『とき』は常に未来に向かって開かれている。過去を新たに啓示しつつ、未来へのあらゆる可能性を内包する『とき』である。モーセはこのような神の『とき』の中で、「一体私は誰ですか」と問うている。
ハイデガーは、自己(現存在)を『時間性』に基づいて解釈し、『存在』とは何かと言う問いの超越論的地平として『時間』を究明しようとした。
今回はモーセの召命とハイデガーの未完の大作『存在と時間』、そして漸源禅師悟道の因縁に参じて見ましょう。
モーセの召命

自分を育ててくれたファラオの娘の下を去り、ミディアンの祭司エトロの娘をめとったモーセは、舅のために荒野で羊の群れを追っていた。
ホレブ山にさしかかると、燃える柴の中から「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」と言う声がした。
モーセは「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされた』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」と問うた。
すると神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ(I Am Who I Am.)。」と答えられた。
ハヤトロギー

私市元宏(きさいちもとひろ)甲南女子大学名誉教授(コイノニア会代表)著『知恵の御霊』によると、モーセが出会った神の名は、「わたしはある。わたしはあると言う者だ。」(出エジプト3:14)と訳されているが、原文に『わたし』が明言されている訳ではない。
ヤハウェは、動詞ハーヤー(成る)の名詞形だが、ヘブライ語の動詞には、明確な時制がない。ある動作がすでに完了しているか、まだ継続しているかだけに焦点があてられる。『ハーヤー』は、『存在している』ことではなく、どこまでも生成し続けていくことである。『止まる』と言う動作は、『まだ動いていない』、『動くことが完了した』、『これから動く』ことを内包している。だから生成して動くこと、それ自体があるのであって、それ以外に何かがあるわけではない。
有賀鉄太郎氏(1899-1977)は、ヤハウェとは、一切のハーヤーをハーヤーせしめる主体とし、このような神観を『ハヤトロギー』と呼び、欧米の存在論的神観と区別した。
創造の時

ヘブライの観念では、ギリシア的時間(クロノス)よりも、むしろ事が生起する『とき』に関心が向けられる。この『とき』は、物理的な『時間』ではない。万象は神の言葉が語られるそれぞれの『とき』の中で生成し、消滅していく(コヘレトの言葉3章)。神が語る『とき』、時間と場所が一体となり『こと』が生起する。これが神の創造の『とき』であり、この『とき』は常に未来に向かって開かれている。過去を新たに啓示しつつ、未来へのあらゆる可能性を内包する『とき』である。モーセはこのような神の『とき』の中で、「一体私は誰ですか」と問うている。
存在と時間

他方、摂南大学(Setsunan University)の有馬善一(Zenichi Arima)教授によると、ハイデガーは、自己(現存在)を『時間性』に基づいて解釈し、『存在』とは何かと言う問いの超越論的地平として『時間』を究明しようとした。現存在の「日常性」は、生誕と死との「間」として性格づけられる。日常性の中では、くる日もくる日も代わり映えのない一日が延々と続く。その中に埋没している限り、我々はやがて確実に訪れる「死」を忘却している。しかし、死を忘れていることは、もちろん、死を超越していることではない。むしろ、死に直面することから逃避していることであろう。それゆえ、現存在は、本来、可能性としての死を既に理解しているのである。言い換えれば、可能性として現存在は死を迎えているのであり、その意味で、現存在は自己の生の全体を(先取りする形で)存在していると言うことができる。ハイデガーが「死への存在」(Sein zum Tode)と呼ぶのは以上のような事態である。
死とは、自己の存在が絶対的に不可能になる追い越し得ない最も極端な可能性である。だが、可能性の不可能性をあえて引き受けることにより、現存在は自己の全体存在として可能になるのである。その意味で自己本来のあり方を自覚する。これを死への「先駆的決意性」と呼ぶ。
ハイデガーは、事実的に「終わっていること」(zum Ende sein)との対比において、可能的に「死へとあること」、つまり、「死への存在」(Sein zum Tode)を捉えている。
生ともいわじ、死ともいわじ

中国唐代(618-907)の後期、道吾円智禅師(769-835)は、葬式をいとなむため典座(寺社の賄い方:炊事番)の漸源仲興禅師を連れて檀家の家に赴いた。典座を任されていただけあって漸源は一筋縄ではいかない弟子だったようだ。檀家の家に着くと、さっそく棺桶をコツ、コツと叩き、「生か死か」と師匠に問答を吹っかけた。すると道吾は「生ともいわじ、死ともいわじ」と答えた。漸源は「なぜ言わぬ」と詰問した。しかし道吾は「いわじ、いわじ」と繰り返した。
皆が死者を悼み悲嘆に暮れている最中に、葬儀をそっちのけにして棺桶の前で問答すると言うのは、如何に禅僧と言え異様だが、あるいは、誰もが必ず通過せねばならない人生の節目の行事を利用して、師弟が両両相まって一場の法話を垂れたのかも知れない。
葬式が終わって帰る途中、漸源は、また「和尚、すみやかに某甲(それがし)がために言え、もし言わずんば、和尚を打ち去らん」と先の問答をぶり返した。すると道吾は「打ちたければ打つがいい。しかしワシは言わん」と応じた。すると漸源は本当に師匠を打ちのめした。
洪波浩渺、白浪滔天も好日

道吾はその後しばらくして遷化した。漸源は、兄(あに)弟子に当たる石霜慶諸禅師(807-888)を訪ね、先の商量(しょうりょう:禅問答)の一部始終を話した。すると石霜も「生ともいわじ、死ともいわじ」と答えた。漸源が「なぜ言わない」と言うと、石霜は道吾と同じように「いわじ、いわじ」と繰り返した。その刹那、漸源はハタと悟った。
その後、暫くして漸源が鍬を担いで禅堂の中を西から東、東から西へ行きつ戻りつしているのを見た石霜が、「何をしている」と尋ねると、漸源は「先師の霊骨を探している」と答えた。石霜禅師が「洪波浩渺、白浪滔天(こうはこうびょう、はくろうとうてん:はてしない大海原に怒濤が逆巻いている)、先師の遺骨など見つかるはずがない」と言うと、漸源は「それなら探し甲斐がある」と嘯(うそ)ぶいたと言う。(碧巌録五十五則:道吾漸源弔慰)
- 禅宗と景教≪使徒行伝(パウロ)≫と現成公案[5]生ともいわじ、死ともいわじ -
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『聖霊のバプテスマ』とは一体何か

ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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