庭前の柏樹子
趙州和尚の答處(スピリット)
唐代末期、河北省趙州の観音院に住した趙州従諗禅師(778-897年)に、一人の僧が尋ねた。「達磨大師がはるばる中国にやって来た目的は 何か」。趙州和尚は庭先の柏の木に目を向けると「そこだ、そこだ」と答えた。
無門和尚は「もし趙州和尚の答處(スピリット)を体得するなら、釈迦もなく、弥勒もない」とコメントしている。 (無門関第37則)
5切れのパンと2匹の魚
イエスがガリラヤ湖東岸の山上で説教したとき5000人ほどの聴衆が集まった。イエスはいつものように先ず聴衆にパンを分け与えるよう命じたが、シモン・ペテロの弟アンデレは「ここに5切れのパンと2匹の魚を持つ少年が居るが、これだけでは何の役にも立ちそうにない」と答えた。
するとイエスは、パンや魚が少ないことに不満を述べもせず、かえって天に感謝の祈りを捧げた後、5切れのパンと2匹の魚を割いて5000人の大衆に欲しいだけ分け与えた。イエスはさらに食べ残したパンくずを一かけらも残さず集めるよう弟子に命じた。弟子達が言われたとおり集めると12のカゴが一杯になった。(ヨハネ伝6:1-13)
仮に一切れのパンも、1匹の魚もなかったならイエスはどうしただろう。イエスはおそらく「神は我々がひもじい思いをすることを望んでおられる。我々はひもじさを分かち合おう」と群衆に呼びかけ、共に天に感謝を捧げたことだろう。
永遠の命に至る食べ物
翌日カファルナウムに戻ったイエスが教会堂に赴くと、ガリラヤ湖をわたって追いかけて来た前日の聴衆の一部がそこにいた。そこでイエスは「あなた方が私を追いかけて来たのは、奇跡を見たからではなく、パンを食べ満腹したからだろう。よくよくあなたがたに言っておく。朽ちてなくなる食べ物のために働くのではなく、永遠の命に至る食べ物のために働くがよい。」と諭した。(ヨハネ伝6:22-27)
すると群衆は祖師西来意を問うた僧のように「神が我々に望む行為とは何か、我々は今何をしたらいいのか。」と尋ねた。そこでイエスは僧を諭した趙州のように「あなた方の目の前に神が使わした私がいるではないか、私に手を合わせれば良い」と答えた。(ヨハネ伝6:28-29)
しかし群衆は満足せず「モーセは砂漠で天から得たパンを施し、イスラエルの民の信頼を得たが、あなたは一体どんな奇跡を見せてくれるのか」と問うた。
そこでイエスは終に、「自分こそ神があなた方に与えた生けるパンである。私の肉を食らい、血をすするものだけが、永遠の命を得ることができる」と言った。(ヨハネ伝6:30-58)
霊なき肉は無益
ここでヨハネ伝は少なからぬ弟子が「これはひどい。とても聞いてはいられない」とつぶやき、イエスの下を去ったと記している。弟子までも動揺しているのを見てとったイエスは「これしきのことで、あなた方はつまずくのか。そんなことでは、私があなた方の下を去り、天に昇る時が来たなら、一体どうするのか」と励まし、さらに「私が語る言葉はスピリットであり、命である。スピリットこそ命であり、(魂の抜け出た)肉は何の役にも立たない」説き聞かせた。(ヨハネ伝6:60-63)
イエスの教えはスピリットであり、スピリットをくみ取ることができなければ、譬えイエスの肉を食らい、血をすすっても、何の役にも立たない。裏返して言えばスピリットさえくみ取るなら、何を食べようが、何を飲もうが、それがすなわちイエスの肉であり、イエスの血である。イエスが食べ残したパンくずを一かけらも残さず集めるよう弟子に命じたのもそのためである。
マタイ伝26章には、イエスが過ぎ越の祭りの日に弟子達と最後の晩餐をとられた様子が描かれている。イエスはパンを取り、祝福してこれをさくと、弟子たちに与え「これ我が肉なり」と述べ、 また杯を取り、感謝して彼らに与え、「これ我が血なり」と語られた。(マタイ伝26: 26:26-28) そればかりではない、最後の晩餐後、弟子達とゲッセマネに赴いたイエスは「父よ、この毒杯をわたしから過ぎ去らせたまえ。されど、みこころのままに」と祈っている。(マタイ伝26:36-39)
この世の苦難は神のみわざを成就するため
この世には、金や地位、名誉、才能に恵まれたものもいれば、盲人や手足の不自由なものもいる。現世は決して平等ではないが、一つだけ言えることは、これらのものが等しく天命を得ていることである。
ある日、弟子と外出されたイエスは、生まれつき目が見えない盲人に出会われた。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生、このものが生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と。(ヨハネ伝9:1-3)
我々は神が準備してくれたものを感謝して受け入れる他ない。それは天命であり、決して変更することはできない。何故ならそれは我々が神の御心に従ってことを進め、神の意思を成就する出発点だからである。イエスはその生涯を通じてこのことを我々に伝えたものと思われる。(回光返照居士 2008/03/23)
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。(キリスト教の起源p.155)
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【参照】
無門関第37則
趙州、因みに僧問ふ、「如何なるか是れ祖師西来の意」。州云く、「庭前の柏樹子」。
無門曰く、「若し趙州の答處に向って見得して親切ならば、前に釋無く、後に彌勒無し」。
趙州従諗禅師系図
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