書評:聖霊のバプテスマ(聖別)
【書評】わたしがお願いするのは、彼らをこの世から取り去ることではなく、彼らをこの世の不浄から守って下さることです(ヨハネ17:15)。真理によって彼らを聖別して下さい。御言葉は真理です(ヨハネ17:17)。彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためにわたし自身を聖別します。そうすれば、私を宿す彼らも完璧に聖別されるはずです(ヨハネ17:19)。
諸聖未説の法
中国の唐代に禅宗興隆の元を築いた祖師の一人、馬祖道一禅師の法嗣南泉普願禅師(748-834)が、兄弟子百丈懐海の弟子の百丈涅槃和尚に参じた際、涅槃和尚が「これまでこの世に出現した幾多の聖人が、誰も人のために説かなかった法(奥義)があるだろうか」と問いかけた。南泉和尚は「有ります」と答えた。涅槃和尚は、「ほほう、そう思うか。それは一体どんなものか言って見よ」と問うた。南泉和尚は即座に「心にあらず、仏にあらず、物にあらず」と答えた。涅槃和尚は「なかなか良い答えだ」と頷いた。すると南泉和尚は「私の答えは今申した通りです。今度は和尚のお答えを聞かせて下さい」と質問した。これに対して涅槃和尚は、「過去の聖人が説いたか、説かなかったかなど、聖人でもない自分が、知るわけがないだろう」と応じた。南泉和尚は「仰る意味が分かりません」と正直に質した。すると涅槃和尚は、「それで良い。お前のために説き終えた」と答えた。
霊的再生:聖霊のバプテスマの条件
イエスは、初めに神とともにあり、神そのもので有った言葉(ヨハネ1:1-2)について証しをしたが、直弟子たちでさえ、イエスの生前には理解することができず(ヨハネ3:32)、霊的再生を通じて、復活のイエスに巡り会った後、イエスが生前に語った言葉を初めて理解したとヨハネ福音書は述べている(ヨハネ2:22)。
洗礼者ヨハネによれば、神が全き真理であることを認識し得たものだけが(ヨハネ3:33)、換言すれば、霊的再生を体験したものだけが、イエスの証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることができるのである。
聖別:霊的再生の条件
ヨハネ福音書のイエスは自分が十字架にかかる真意を、神への祈りの形を通じて、次のように説き明かしている。
「私が今十字架にかかるのは、自分自身を聖別するためです。そうすれば、私を宿す彼らも完璧に聖別されるはずです(ヨハネ17:19)。」「そして彼らを通じて私を信じるものも一つになれば、最終的に世界も一つになり(ヨハネ17:20-23)、天地開闢以前に私とあなたが共有していた栄光と愛を(ヨハネ17:22-24)、この世の全てが、共有するようになるはずです(ヨハネ17:13)。」
イエスは、自分が十字架に掛けられることを通じて、父のもとに帰るように、弟子達が、それぞれ直面する現実(十字架)との格闘を通じて聖別され、初めに神と共にあり、神そのものであった言葉(ヨハネ1:1-2)に立ち返ること、言い換えれば聖霊のバプテスマを受けることを期待している。
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。(キリスト教の起源p.155)
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【参照】
碧巌録第28則、南泉不説
南泉、百丈涅槃和尚に参ず。丈問う、「従上の諸聖、還って人のために説かざる底の法ありや?」。
泉云く、「あり」。
丈云く、「そもさんかこれ人のために説かざる底の法?」。
泉云く、「不是心、不是仏、不是物」。
丈云く、「説き了れり」。
泉云く、「某甲(それがし)は、ただ恁麼(いんも)、和尚作麼生(そもさん)?」
丈云く、「我れまたこれ大善知識にあらず。いかでか説不説あることを知らん」。
泉云く、「某甲不会(ふえ)」。
丈云く、「我はなはだ汝がために説き了れり」。
馬祖一門系図
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