罪祭の羊Ⅲ
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第五部:仮庵の祭り
世間はあなたがたを憎むことはできない
ヨハネ福音書によると、洗礼者ヨハネの弟子との間に清めの論争が生じた後、イエスは、ユダの地を避け、ガリラヤ領内を巡回していたが、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた頃、兄弟たちがイエスに「あなたは、ガリラヤを離れ、ユダの地に行くべきだ。そうすれば弟子たちにあなたの奇跡の業(わざ)を見せることもできる。人から注目されることを望みながら隠れて行動するものはない。あなたは既にそう言う道を選んだのだから、あなた自身を世間に示すべきだ(ヨハネ7:3-4)」と激励した。
イエスは「私の出番はまだ来ていないが、あなた方の時はいつも熟している。世間(エルサレムの宗教界)はあなたがたを憎むことはできないが、私を憎んでいる。私が世間の諸悪を曝いているからだ。あなたがたは祭りに行ったらいい。しかし私はまだ行かない。時機が熟していないからだ」と答え、ガリラヤに留まったが、兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに出かけた(ヨハネ7:6-10)。
この会話からイエスと兄弟たちの関係が、おおよそ理解できる。ヨハネ福音書は、カペナウム会堂における説教後、多くの弟子がイエスの下を離れ、二度と行動を共にしなかったと記した直後にこの会話を紹介し、「こう言ったのは、兄弟たちさえ、イエスを信じていなかったから(ヨハネ7:5)」と注釈している。弟たちはイエスを対等な兄弟と見、信仰の対象にはしていなかったが、イエスの活動や計画は理解していたようだ。おそらく、ナジル派大祭司の職を務め、エルサレム宗教界において義人の誉れ高い小ヤコブが、家族の大黒柱で、他の弟たちは、イエスよりも小ヤコブに師事していたものと見られる。
ちなみに共観福音書(マルコ/マタイ/ルカ3福音書)では、『神殿の商人たちを追い払った事件』をイエスの宣教活動の最後に配置している。
ヨハネ福音書の記述からすると、ベタニアにおける洗礼者ヨハネの証言により華々しくエルサレム宗教界にデビューするや否や、マカバイ戦争でエルサレム神殿をギリシア人から奪還したハヌカの故事に倣って神殿の商人たちを追い払ったイエスは、一端ガリラヤに戻り、エルサレム宗教界の反応を観望していたようだ。しかし弟たちは、『あなたは、ガリラヤを離れ、ユダの地に行くべきだ。そうすれば弟子たちにあなたの奇跡の業(わざ)を見せることもできる。』とし、さらに『人から注目されることを望みながら隠れて行動するものはない。』と指摘、そればかりか、『あなたは既にそう言う道を選んだのだから、あなた自身を世間に示すべきだ』とだめ押している。
『そうすれば弟子たちにあなたの奇跡の業を見せることもできる』には、エルサレムであれば、ナジル派大祭司の権能を認められた小ヤコブと他の弟たちが、カナの婚礼の時と同様にイエスが行う奇跡を助けることもできると言う弟たちの意図が感じられる。
つまり弟たちは最終的にイエスを罪祭の羊として十字架にかける計画をさらに加速よう求めたのである。これに対するイエスの『私の出番はまだ来ていないが、あなた方の時はいつも熟している。』と言う言葉は、「私が十字架にかかる時はまだ来ていないが、あなた方は今なすべきことがあるはずだ」と逆に叱咤したもので、イエスは「世間はあなたがたを憎むことはできないが、私を憎んでいる。」補足している。
縄の鞭を振るい神殿の商人を追い払ったり、ごった返す集会場の天井を破り、戸板に載せた病人をイエスの前に屋根からつりおろすといったパフォーマンスは、一部の大衆を扇動する効果を発揮したものの、エルサレム宗教界の顰蹙を買い、イエスは祭司たちから憎まれたようだ。
しかし大祭司カイアファやサンヘドリンのお墨付きの下に、こうした舞台装置を準備した弟たちを憎むことはできないため、彼らは神殿を中心としたエルサレムの表舞台で引き続き計画を推進できると言うのである。
イエスの所在
こうしてひそかにエルサレムに赴いたイエスは、祭も半ばになってから、宮に上って教え始められた。「私は、もうしばらくあなたがたと一緒にいて、それから、私をおつかわしになった方のみもとに行く。あなたがたは私を捜すだろうが、見つけることはできない。」
そこでユダヤ人たちは互いに、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしいてるのだろう。ギリシャ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシャ人を教えようというのだろうか。また、『私を捜すが、見つけることができない。そして私のいる所に来ることができない』とは、どういう意味だろう(ヨハネ7:33-36)」といぶかった。
ヨハネ福音書は、「初めに言葉(理)があった。言葉は神と共にあった。言葉は神そのものであった。彼(イエス)は初めから神とともにあった。彼から全てのものが生じた。この世に存在するもので、彼から生まれなかったものは何も無い(ヨハネ1:1-3)」と、大宇宙を貫通する言葉が、イエスの実体であることを冒頭で示した後で、全編を通じて十字架に処せられたイエスは一体どこに帰ったのかと言う大公案を提起しているが、最後の晩餐の席で、イエス自身がその謎解きをしている。
イエスの謎解き
イエスは最後の晩餐において、十字架計画の真意を十二使徒達に次のように説き明かした。
イエスが「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしがそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所の用意をしに行くのだから。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたはわかっている」と語ると、トマスは、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と尋ねた。すると、イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父も知っていたはずである。しかし、これからは、あなががたは確かに父を知り、またすでに父を見たのである」と語った。しかしピリポは、「主よ、私たちに父を見せてください。それで十分です」と応じた。イエスは、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしのうちにおられるのが分からないのか。わたしが語ることばは、単にわたしのことばではない。みわざを行うわたしの内に宿られた父のことばである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものを信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くのだから。」(ヨハネ14:2-12)
しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。(ヨハネ16:7)
その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである(ヨハネ16:23-28)。
最後の説教を終えた後、イエスは弟子たちから少し離れた場所で、さらに次のように神に祈を捧げた。
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです(ヨハネ17:11)。
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにおり、彼らは完全に一つになり、世界は、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを知るでしょう(ヨハネ17:23)。
一個半個の教えから大衆宗教に脱皮
カペナウムの会堂で、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしは、来る者を決して拒まない(ヨハネ6:37)。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである(ヨハネ6:40)。」と説いたイエスは、しかし「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない(ヨハネ6:44)」と述べている。つまり『始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り得たものだけが、『神が全き真理であることを覚知する(ヨハネ3:33)』ことができる、換言すれば、聖霊のバプテスマを受け、永遠の命を得ることができると言うのである。
これでは、イエスは、一個半個の覚醒者を打ち出すことを目指す禅宗(門徒数おそらく1千万弱)の開祖にはなれても、今日の22億のキリスト教団が誕生することはなかったろう。しかしイエスとは反対にユダヤ教の戒律を厳守する原理主義集団ナジル派の祭司として、大祭司のみに許された神殿の聖所における祭儀も執り行ったとされる弟の小ヤコブが後継者に指名されたことから、イエスの処刑の1ヶ月半後(ペンテコステの日)に大祭司邸に隣接したエッセネ派集会所で発足した原始キリスト教団には、海外在住ユダヤ人組織の代表の他、ファリサイ派やサドカイ派のメンバーも含め、その日1日で約3000人が入会した(使徒2:41)と言う。
イエスが宣教活動に乗り出した際、その側近を務めたとされるペテロと大ヤコブ/ヨハネ兄弟は、洗礼者ヨハネの弟子だったとされ、洗礼者ヨハネは、別の原理主義集団エッセネ派と緊密な関係を有していたと見られることから、これらの弟子たちも、旧約の記述に基づいてイエスの教えの再構築を試みたようだ。さらにイエスから教えを受けたことがないパウロが教団に加わり、『信仰義認』と言う独自の教理を注入したことから、キリスト教は、大衆宗教に変身、ローマ帝国の支配地域に急速に広まったものと見られる。
仮庵の祭りに神殿で説教
ユダヤ暦7月15日の仮庵の祭りに一緒にエルサレムにのぼるよう求める弟たちの誘いを、一旦断った後、密かにエルサレムにのぼり(ヨハネ7:1-10)、神殿の庭で説教したイエスは、この時点で、翌年1月15日の過ぎ越の祭りの前日に十字架に掛けられる覚悟を決めていたものと見られる。処刑の1ヶ月半後のペンテコステの日(ユダヤ暦3月6日)には、大祭司邸に隣接したエッセネ派集会所で、地中海沿岸各地の異邦人教会の代表から成るエルサレム教会が発足、イエスの弟ヤコブが初代司教に就任したが、こうしたスケジュールも既に決まっていたものと見られる。残りの準備期間は数ヶ月を余すのみで、この後、イエスがガリラヤに戻ることは、もはやなかった。おそらく、ルカやバルナバもマケドニヤやキプロス島で、異邦人教会本部を立ち上げる総仕上げに追われていたものと見られる。
では一体誰が、こうした計画を立案したのか。大祭司カイアファやその舅アンナスは、海外の異邦人ユダヤ教徒を統括するエルサレム教会が組織されることを歓迎したものと見られる。またローマ総督やヘロデ王家も、これにより宗教指導者らによる反乱が多少なり鎮静することを期待したかも知れない。しかし、地中海沿岸全域の異邦人ユダヤ教徒を巻き込むこうした運動を牽引する力は、誰一人持っていなかったことは明らかである。
群衆も聖職者も異変を予感
イエスは、仮庵の祭りに神殿の庭に集まった大衆に、「そうだ、あなた方は私を知っている。私がどこから来たかもしっている。私は自分から来た訳ではない。しかし私を使わされた方は真実な方である。あなた方はその方を知らないが、私は知っている。私はその方の下から来たのであり、その方が私を使わされたのである(ヨハネ7:28-29)」と叫んだ。
過ぎ越しの祭りの最中に神殿の庭で縄の鞭を振るって生け贄用の牛や羊を追い払い、両替商の机をひっくり返した男が、警備兵からとがめられることもなく、再び神殿に立ち入り説教まで行うのを見て、群衆ばかりでなく、聖職者たちも、何か異変が生じつつあることを予感したにちがいない。
少なからぬ神殿聖職者は、イエスの説教の内容に不満を抱き、憤慨したろうが、ナジル派の司祭として、大祭司のみに許された聖所における祭儀を執り行っていた義人ヤコブの兄に手を出すことはできなかったものと見られる。前任の大祭司で実権を握るアンナスとその女婿で現職の大祭司、カイアファの暗黙の了解も得ていたであろうことは、イエスから言われるまでもなく誰もが察していたからだ。
ヨハネ福音書は、「この時、彼ら(ユダヤ人たち)はイエスをとらえようと考えたが、誰一人イエスに手をかけるものはなかった。その時がまだ来ていなかったからである(ヨハネ7:30)」と述べている。
私を使わしたのは真実な方
イエスは、「私は世を照らす光であり、私に随うものは、決して暗闇を歩くことはなく、命の光を手に入れることができる」と説いた。
これを聞いたファリサイ派の聖職者は、「あなたは、自分自身について証しをしている。あなたの証しは無効だ」と批判した。
これに対してイエスは「あなた方は私がどこから来たかも、何処へ行くのかも知らないが、私は自分がどこから来てどこへ行くのか知っている。だから私の証しは正しい(ヨハネ8:12-14)」と反論した。
つまり「私が証すものは、霊から生まれた本源的自己である。あなた方は風の音を聞いても、それがどこからきて、どこへ行くか分からない(ヨハネ3:8)ように、霊から生まれた私がとこからきて、どこへ行くのか分からない。しかし私は、自分がどこから来て何処へ行くのかが分かる。だから私の証しは正しい」と言うのである。
イエスは、『聖なる単独者』と言う絶対軸に立って証しをしたが、これでは、相対軸に立つ地上の人間は、理解することができない。これに対してモーセは、天上の理を人々が理解できるように地上の言葉で説き明かした。しかし一旦相対軸に基づいて書き表した律法は、最早絶対ではない。
そこでイエスは、「私は(絶対軸からすれば)、何も説かないし、誰も裁かない。しかし(相対軸に立って)さばくとしても、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされた方が、常にわたしと一緒だからである。あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。私は私自身の証人であり、もう一人の証人は私をこの世に使わされた方そのひとである(ヨハネ8:15-18)」とし、神と一体不二の聖なる単独者としての自分の証しは、モーセの律法に照らしても有効だと主張した。
イエスは、聖職者らに「わたしは父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている。アブラハムの子なら、アブラハムのわざをするはずだが、あなた方は、神の言葉を伝えるこの私を殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである。(ヨハネ8:38-41)」と説いた。
これを聞いて憤慨したユダヤ人たちは、「我々は、そんな不埒な人間ではない。神こそ我々の唯一の父だ(ヨハネ8:41)」と、イエスが求めていた答えを終に口走った。
しかし、イエスは口先だけでは許さず、「神に属するものは神の言葉を聞くことができる。あなた方が聞くことができないのは、あなた方は神に属しておらず(ヨハネ8:47)、私の言葉を理解する耳を持たないからである。あなた方はあなた方の父親、つまり悪魔に属しており、あなた方はその父親の意志を遂げようとしている。彼は初めから人殺しであり、真理に立つものではない。彼には真理のかけらもない。彼が偽りを語る時、彼は生まれながらの自分の言葉で語る。彼は生来の嘘つきであり、嘘の権化である(ヨハネ8:43-44)。神に属するものは、神の言葉をきくことができるが、あなた方が聞くことができないのは、神に属していないからである(ヨハネ8:47)」と突き放した。
『人を殺さば、すべからく血を見るべし』という禅門の師家のごとく、イエスは「アブラハムの子孫などという臭気芬々たる誇りを捨て、喪身失命を覚悟しない限り、聖霊のバプテスマ(奪命の神符)を受けることはできないぞ」と引導をわたした。
イエスはここで、「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている(ヨハネ8:37)」と述べる一方で、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔に属しており、その父の意志を行おうとしている(ヨハネ8:44)」と述べ、絶対軸に立った霊的ルーツと、相対軸に立つ肉体的ルーツを使い分け、現世に生きる肉身は皆罪の奴隷だ(ヨハネ8:34)と断じている。
民族の誇りを奪いとることにより、天地開闢以前の本源的自己(ヨハネ15:27)に目覚めさせると言うイエスの荒治療は奏功し、トマスによりインドに伝えられた聖霊のバプテスマは、再活現成(Spiritual rebirth)を根本宗旨とする禅文化を開花させた。しかし、イエスの十字架刑もここに定まったと言える。
奪命の神符
過去現在未来を支配するシバ神の別名とされる摩醯首羅は相対界を見渡す横二つの眼の他に、額に絶対的視点に立って物事を見通す縦の目をもち、肘には奪命の符を掛けている。
日本臨済宗の中興の祖、白隠慧鶴(はくいん・えかく1686-1769)禅師は、槐安国語第十一則に収録された、臨済義玄禅師の高弟三聖恵然(さんしょう・えねん)禅師と潙仰宗を開いた仰山慧寂(ぎょうざん・えじゃく804-890)禅師の問答に、「獅子嚬呻(ひんしん)、頂門に竪亜(じゅあ)す摩醯(まけい)の眼、肘後斜めに懸く奪命の符」と著語、摩醯の一隻眼でわたり合う両雄の問答に参じるものは喪身失命を覚悟せねばならないと警鐘している。
その昔、三聖禅師が仰山禅師に見えた際、仰山禅師が「お前の名は何と言う」と尋ねた。すると、三聖禅師は「俺は慧寂だ」と答えた。これに対して仰山禅師は「慧寂は俺だ」と言った。すると三聖禅師は「それなら俺は恵然だ」と言った。これを聞いて、仰山禅師は呵呵大笑したと言う。(槐安国語 第十一則 汝名什麼)
真理の御霊は摩醯の符
イエスは続けて「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者だが、わたしはこの世の者ではない。」天上の次元の話を、地上の次元で理解しようとしても、話がかみ合わないのは当然である。「私はあなた方が、罪業のうちに死ぬだろうと述べたが、もし私が私について証したことを信じないなら、あなた方はまさしく罪の海の中で死ぬほかない(ヨハネ8:23-24)。」しかし「(もしあなた方も天上の次元に立って)、私の言葉にとどまるなら、真理を知ることができる。そして真理はあなた方を地上の罪から解放するだろう(ヨハネ8:31-32)」、つまり、「聖霊のバプテスマを受け、真理の御霊を受け入れるなら、生死と罪業の輪廻を抜け出すことができる」と説き明かした。これに先だってイエスは、姦淫の女に対しても「私もあなたを罰しない。罪の生活に告別しなさい(ヨハネ8:11)」と諭している。
イエスはさらに「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられ、わたしをひとり置きざりになさることはない。なぜならわたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているからである(ヨハネ8:29)」と神人一体の単独者としての自信のほどを明言した。
エルサレム神殿におけるイエスの説教は、正に摩醯首羅の獅子吼を彷彿とさせる。しかし、これほどの信念を示したイエスでさえ、ゲッセマネでは「父よ、あなたにできないことはありません。願わくば、この杯をわたしから取りのけてください。されど、みこころのままに(マルコ14:36/マタイ26:39/ルカ22/42)」と祈り、十字架上において「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マルコ15:34/マタイ27:46)」と叫んだとされる。
イエスの権能
ユダヤ暦7月の仮庵の祭りにエルサレムにのぼり、神殿でユダヤ人にアブラハムの子孫などと言う誇りを捨てない限り、聖霊のバプテスマ(奪命の神符)を受け、永遠の命を手に入れることはできないことを説き明かしたイエスは、その後もエルサレムにとどまり、生まれつきの盲人を癒やす奇跡を実演するとともに、「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのであり、私が命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨て、またそれを受ける権能(authority)がある。これはわたしの父から授かった定め(command)である(ヨハネ10:17-18)」と説き、十字架にかかる決意を重ねて表明した。
ヘブライストの救世主
すると一群のユダヤ人が、ハヌカの祭りに神殿を訪れたイエスをソロモンの廊で取り囲み、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい(ヨハネ10:24)」と詰め寄った。これらのユダヤ人たちは、セレウコス朝シリアの支配に反旗を翻したモディンの祭司マタティアスのような救世主をイエスに期待したものと見られる。
ユダヤ暦9月25日から翌月にかけて8日間祝われるハヌカ(きよめ)の祭りは、紀元前164年にマカバイ戦争に勝利したユダヤ人が、エルサレムを奪還し、ヘレニズム化された神殿を清めたことを記念する祭りである。
地中海沿岸地域のヘレニスト(ギリシア語を共通語とする海外在住ユダヤ教徒)の中から生じた教会運動の先頭に立つ決意をしたイエスは、こうしたユダヤ人の要求に対し、「もう話したではないか、しかしあなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである(ヨハネ10:25-26)」とすげなく突き放した。
激怒したユダヤ人が石で打とうとすると、イエスは、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」とただした。ユダヤ人が、「あなたはただの人間に過ぎないのに、自分は神だと言い、神を冒涜したからだ」と答えると、イエスは「律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからといって、どうして『あなたがたは神を汚す者だ』と言うのか。わたしのわざを信じるものは、父がわたしにおり、わたしが父におることを悟るであろう」と言い捨て神殿を後にした(ヨハネ10:32-39)。
末後の句
どうやら、イエスは、過ぎ越しの祭りに自分が十字架にかかるまでは、たとえ老婆心をもって説き聞かせても、これらのユダヤ人は、自分の末後の句を理解することはできないと判断したようだ。
『末後の句』とは、大死一番し、絶後に蘇ることを得た者、スピリチュアル・リバースを体験した者が発する言葉であり、ヨハネ福音書は、「人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)が、地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できず(ヨハネ3:32)、地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知するほかない(ヨハネ3:33)」と説いている。つまり、『末後の句』は聖霊のバプテスマの実体である。
徳山托鉢
中国の唐代に学人を棒で叩いて鍛え、多くの法嗣(はっす)を輩出したことで知られる徳山宣鑑(とくざん せんがん:780-865)禅師が、ある日、自分の食器を抱えて食堂に行くと、炊事当番の雪峰義存(せっぽう ぎぞん:822-908)禅師が、「ご老体、まだ鐘も鳴らぬのに、鉢を抱えて何処へお出でか」とただした。すると徳山は、だまってすごすごと方丈に引き返した。
生真面目で努力家の雪峰は、この徳山の応対ぶりを不審に思い、兄弟弟子の巌頭全豁(がんとう ぜんかつ:828-887)禅師に尋ねた。雪峰とは対照的に人を食った天才肌の巌頭は「おや、そんな事が有ったかい。大狐(徳山)も子狐(雪峰)もまだ末後の句がわかっておらんな」と返事した。これを聞いてますます疑念を深めた雪峰は、事も有ろうに巌頭のコメントをそのまま徳山に話したようだ。
そこで徳山は、巌頭を方丈に呼び寄せ、「お前、わしがまだ末後の句がわかっていないなどと、雪峰に入れ知恵したと言うが本当か」とただした。巌頭が真意を打ち明けると、徳山は、「おう、そういうことか」と納得したと言う。
翌日、講座台に上った徳山は、果たして尋常ならざる説法を行った。巌頭は、すかさず「お見事!師匠の末後の句は実にあっぱれだ。今後、もはや誰もこの老人を侮ることはなかろう」と喝采したと言う。(無門関第十三則)
元朝時代の天目山中峰明本(てんもくざん ちゅうほう みょうほん:1263-1323)禅師は、「坐脱立亡(ざだつりゅうぼう:坐ったまま肉身を解脱し、立ったまま寂滅する)をもって、悟りの究極の表現であり、『末後の句だ』などと説く者は、西天九十六外道の類いに他ならない」と戒めている。明本禅師によると、「古人の語黙動静は、学人を導く臨機応変の方便に過ぎず、絶対不変の第一義諦ではない」と言う。
諸行無常のこの世において、一旦、発せられた言葉、あるいは行為は、もはや絶対ではなく、第一義諦ではあり得ない。徳山の棒、臨済の喝も臨機応変の方便に過ぎず、『末後の句』など、初めから存在しない。しかし、『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知することができる(ヨハネ3:33)』。千聖不伝の聲前の一句は、自ら覚知する外ないようだ。
第六部:復活のリハーサルと最後の1週間
復活のリハーサル
神殿を後にしたイエスは、そのままヨルダン川の対岸にわたり、洗礼者ヨハネの弟子と合流、しばらく同地、おそらくペラ州アイノンにとどまり、ベタニアにおける復活のリハーサルの準備が整うのを待った。マルタ・マリア姉妹からラザロ危篤の知らせを受けた後、わざと出発を数日遅らせ、ラザロの葬儀の席に現れたイエスは、会葬者の面前で、ラザロを墓から蘇らせた。この噂は、会葬者らによりイスラエル全土に伝えられた。これを受けて、最高評議会を招集した大祭司カイアファは、イエスを救世主として十字架にかけることを提案(ヨハネ11:49-52)。イエスは、一旦、エフライムに退いた(ヨハネ11:49-54)。
エフライム
エフライムは、十二部族の一つヨセフ族から別れたマナセ族とエフライム族の一つエフライムに割り当てられたエルサレム北方の丘陵地帯で、パレスチナ随一の豊穣な土地とされる。カナンを征圧したモーセの後継者ヨシュアや北イスラエル王国の初代国王ヤラベアム1世もエフライムの出身だった。ヤラベアム1世は亡命先のエジプトから持ち帰った『聖牛信仰』により、聖地エルサレムに対抗しようとした。同地にはヨシュアの墓も存在する。イエスは十字架刑に処せられる前にヨシュアの墓前に報告に赴いたのかも知れない。だとすれば、イエスの実父パンテラがエフライム族だった可能性もありそうだ。
一粒の麦地に落ちて死なずば
過ぎ越しの祭りの6日前に再びベタニアに赴き、マリアから香油の洗礼を受けたイエスは、翌日ロバに乗り、大衆を率いて、エルサレムに入城した(ヨハネ12:12-15)。しかし数人のギリシア人と面会した後、イエスは苦悶の表情を浮かべ「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この世に来たのです(ヨハネ12:27)。」と述べ、俄に動揺し始めた。おそらくイエスは、1ヶ月半後のエルサレム教会の発足式に出席するため、はるばるギリシアから訪れたヘレニスト信者のリーダー達から、内外ユダヤ教徒諸派の代表と大祭司を初めとするサンヘドリンの最終的合意内容を告げられたのだろう。イエスはこの時、「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく、一粒の麦地に落ちて死なずば、一粒にてありなん。もし死なば、多くの実を結ぶべし(ヨハネ12:23-24)」と語られたと言う。
大祭司カイアファの役割
ローマ総督から大祭司の職を委ねられたカイアファやその舅アンナスは、イエスの説教のために神殿を開放し、神殿内にたむろする商人たちを追い払うのを許しただけでなく、ロバに乗って入城すること、つまりユダヤの王として入城することさえ認めた。イエスは神殿の商人を追い出した後も、神殿内で、説教を行っており、大祭司が特別に許可していたことが窺える。ヨハネ福音書によれば、大祭司と親しい弟子の一人は、イエスが捕縛された際も、イエスとともに大祭司の屋敷に自分が入り込んだだけでなく、ペテロを屋敷内に入れるよう交渉役を務めている。
当時、エルサレムの市街も神殿も堅固な城壁で囲まれていた。しかも、この年の過ぎ越の祭りには、直線で87キロほど離れたカイザリアからローマ総督が、また同116キロほど離れたティベリアからガリラヤ領主のヘロデ・アンティパスが、エルサレムを訪れたため、警戒は一層厳重だったと想像される。
イエスはまさにこの時期を選んで計画を実行したが、当然大祭司の許可を得ていたものと見られ、さもなければロバに乗り群衆を従えて市街に入城することなど不可能だった。
三つの譬え話と五つの問答
ニサンの10日日曜日にイスラエルの王としてロバに乗り大衆を率いてエルサレムに入城し、神殿の商人を追い払ったイエスは、十字架刑に処せられるまでの数日間、毎日、神殿に赴き、大衆や弟子たちに対しては三つのたとえ話(二人の息子/邪悪な小作人/王の息子の婚礼)と終末預言を行うとともに、聖職者やヘロデ党の幹部と以下の五つの問答を行った。ちなみに≪ヨハネ福音書≫は『神殿の商人を追い払った事件』をイエスの伝道の初めに配置しているのに対して、≪共観福音書≫は伝道の最後に位置づけている。
祭司や長老らが「如何なる権威に基づいて、こんなことをし、誰がそんな権威を授けたのか」と質すと、イエスは「洗礼者ヨハネは何の権威によって、洗礼を施したのか。彼の権威は天によるものか、人によるものか」と逆に問い返し、長老らが、「分からない」と言うと、「それなら私も、何の権威によるのか、言うまい」と、五つの問答の中で一つだけ回答を控えた。とは言え、大祭司カイアファやナジル派の司祭として大祭司と同等の権威を認められた小ヤコブが、イエスに暗黙の了解を与えていたことは、誰の目にも明らかだった。実際のところ、大祭司と小ヤコブにより、イエスを救世主として、十字架にかける最後の仕上げとして、イエスが聖職者やヘロデ党の幹部と対話する機会が周到に準備されたものと見られる。
ファリサイ派とヘロデ党の者たちからローマに税金を支払うべきか否かを問われたイエスは、シーザーの肖像が刻印された貨幣を示して、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と答えた。
復活を否定するサドカイ派が「モーセは『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』と説いているが、この教えを守って順に兄の妻を娶った7人の兄弟とその妻が復活した時、この女は誰の妻になるのか」と尋ねると、イエスは「復活の時、人は最早、娶ったり、嫁いだりすることはなく、それは正に天使のようなものである」とし、肉体の復活を否定するとともに、「神はモーセに『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と述べたように、神は死んだ者の神ではなく、生けるものの神である」とし、魂の不滅を説いた。これを聞いた律法学者の一人は「先生、立派なお答えです(ルカ20:39)」と賛同したと言う。
ファリサイ派の律法学者から「律法の中で一番大切な法は何か」と問われたイエスは、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ(申6:4-5)』と『己を愛するように隣人を愛せ(民19:18)』の二つを挙げ、「律法書と預言書の全体がこれら二つの聖句に集約されている」と答えた。
最後にイエスはファリサイ派に対して「キリストは誰の子か」と逆に質問した。彼等が「ダビデの子だ」と答えると、「ダビデは『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい(詩110:1)』と述べているが、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか(マタ22:43-45/マル12:35-37/ルカ20:41-44)」と述べ、ダビデの血筋から救世主が出現すると言う説を否定した。
ちなみに、神は≪第二サムエル記≫の中で預言者ナタンを通じダビデに対して「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる(サ二7:12-14)。」と語り、また『エレミア書』においても、「見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。」と述べ、ダビデの血筋が代々イスラエルの国王になることを約束している。
イエスのこれらの答えは、『救世主はダビデの血筋から出現する』と言う伝承のみならず、『異教の支配者に対する税金の支払い』を拒んだハシディーム派や『キリストの肉体的な復活を示唆した』パウロ神学とも一線を画する一方で、エッセネ派の説く『隣人愛』こそが、律法の根幹としており、注目される。
とは言えイエスは、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』と言うやはり≪詩篇≫41章9節の語を引用し、十二使徒の一人ユダに裏切られることを暗示した(ヨハ13:18)とされるが、救世主がダビデの血筋から出現すると言う前提が無ければこの暗示は無意味になる。
ニサンの月14日
イエスはおそらく西暦33年、ユダヤ暦ニサンの月14日の金曜日、グレゴリオ暦4月1日金曜日、ユリウス暦では4月3日金曜日に処刑されたものと見られる。当時、ユダヤには複数の暦が存在した。処刑当時、あるいは福音書が書かれた時代に、また伝承の中でどの暦が用いられたかが不明であり、暦と、実際の季節とのづれも、適宜調整されていた。このため正確な年代を割り出すのは不可能に近いと言う。
しかし、イエスが処刑されたのは、過ぎ越しの祭りの前日が、安息日の前日と、重なるユダヤ暦ニサンの月の14日もしくは15日だった。ポンティオ・ピラトがユダヤ総督を務めた西暦26年から36年の任期において、以上の条件を満たす年は西暦27年、33年、36年と言う。
一方、ヨハネ福音書2章の記述から、イエスがエルサレムの神殿を訪れたのは、ヘロデ大王が改修工事を始めて(紀元前20/19年)から46年を経た時と見られる。
これらの点から類推すると、イエスが処刑された年は、ピラトが総督に就任して間もない西暦27年と言うことになる。
しかしルカ福音書はローマ皇帝ティベリウスの15年、したがって西暦28年もしくは29年にヨハネがヨルダン川で洗礼活動を開始したと述べている。イエスがその前に十字架にかけられることはあり得ない。このため、西暦33年の可能性が高いと言う。ちなみに日本語版ウィキペディアやノース・カロライナ大学宗教学研究所のジェイムズ・D・テイバー教授は西暦30年のこととしている。
ローマ総督ピラトとの対面
西暦33年、ユダヤ暦ニサンの月の14日早朝、祭司および律法学者らの代表が、ローマのユダヤ総督ピラトに対してユダヤの国王を僭称したとする一人の男を死刑にするよう要求した。ユダヤでは、日常の裁判はユダヤ人に任されていたが、死刑を判決する際は、総督の認可を必要とした。
ピラトは、この男、つまりイエスがローマを脅かす存在でないことを見て取り、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない(ヨハネ18:37-38、ルカ23:4)」と述べ、イエスの出身地ガリラヤの支配者ヘロデ・アンテパスの判断も求めた上、過ぎ越しの祭りに1人の囚人に恩赦を与える習慣に従ってイエスを許そうとした。
当初のシナリオでは、おそらくこの時点でイエスは釈放され、弟子達より早くガリラヤに戻れるはずだった(マルコ14:28,16:7,マタイ28:7,10)。この点に関しては、総督、ヘロデ王家、神殿およびサンヘドリンの主立ったリーダーの間でコンセンサスが形成されていたものと見られる。しかし予想外の事態が生じた。すなわち、群衆は、別の囚人バラバの釈放を求めた(ルカ23:5-19)。そこでピラトは水を持って来させて手を洗い、「この男の血について自分には、責任がない、お前達の責任だ」(マタイ27:24)と述べ、終に死刑を判決した。
ヘロデ・アンティパスの来歴
ローマの力をバックにハスモン朝に取って代わったヘロデ大王が死去した後、3人の息子、ヘロデ・アルケラオス、ヘロデ・フィリッポスおよびヘロデ・アンティパスが、大王の領地を分割相続した。1)ヘロデとサマリア人マルタケ(Malthace)の息子ヘロデ・アルケラオスは、王国の中心ユダヤ、エドムおよびサマリアを、2)ヘロデの5番目の妻クレオパトラの息子ヘロデ・フィリッポスⅠ世は、バタネアやガウラニティスなどの北東部を、3)アルケラオスの同母弟ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤとペレア(Perea)を、それぞれ統治した。
ローマ皇帝アウグストゥスは、ユダヤとアラビアの隣国ナバテヤとの友好のために、ヘロデ・アンティパス(在位BC4-AD39)とナバテヤ王アレタス四世の娘を結婚させたが、アンティパスと、異母兄フィリポスの妻で姪のヘロディアとの親密な関係がバレ、ナバテヤ王の娘は実家に逃げ帰った。
アンティパスはその後、ヘロディアと再婚したが、洗礼者ヨハネが、兄嫁との再婚はモーセの律法(Torah)に反するとして反対したため、ヨハネを死海湖畔のマケラス要塞に幽閉、その後斬首した。しばらくしてナバテヤと戦争になり、マケラス要塞付近で惨敗したため、ヨハネのたたりと評された。
ファリサイ派は、エドム出身で、ローマと親密な関係を有するヘロデ王家を、ヘレニズム文化を積極的に導入したハスモン朝同様、毛嫌いしていた。ハスモン朝のヤンナイオス王も、兄嫁と結婚し、このことがファリサイ派との軋轢の一因になったと言う。
ヨハネの首を密かに手厚く葬り、その後イエスの弟子になったヘロデ・アンティパスの執事クーザの妻ヨハンナは、イエスの処刑と埋葬も見届けている(ルカ24:10)。この点からアンティパスの新興宗教勢力に対する慎重な配慮が窺える。
ルカ福音書によると、ローマ総督ピラトがイエスを彼の下に送り届けた際、アンティパスは歓喜した。長らくイエスに会うことを楽しみにしていた、アンティパスはイエスに様々な質問を試みたが、イエスは一言も答えなかったと言う(ルカ23:8-9)。
当時、ローマ帝政は極めて不安定で、地方軍団、元老院、宮廷を巻き込んだ陰謀が四方に渦巻いていた。こうした中でヘロデ大王の子や孫達はそれぞれ独自に、ローマの諸勢力と関係を築き生き残りを図っていた。
ローマ時代のユダヤ人歴史家ヨセフスによると、カリグラがローマ皇帝に即位した際、彼は親友のアグリパ1世(ヘロデ大王とハスモン朝の王女の孫、ヘロディアの兄、アンティパスの甥)に、フィリッポスⅠ世のかつての所領を与え、王の称号を用いることを許した。これを嫉妬したヘロディアは、夫アンティパスにも国王の称号を認めるよう誓願させた。これを知ったアグリッパは直ちにカリグラ帝に、叔父にはティベリウス帝に謀反を企てた前歴があり、今も7万人を装備するに足りる武器を蓄え、カリグラ帝に対する反乱を準備していると密告した。カリグラ帝は、アンティパスの申し開きも聞いた後、西暦39年夏、アンティパスをガリアのリヨンに追放、その所領と財産を親友アグリッパに委ねる裁決を下した。
第七部:エピローグ
イエスの遺骸消失
イエスが処刑された翌日の土曜は安息日だったことから、イエスに付き従った女たちは、日曜日の朝早く、遺骸を収めた墓を訪れた。すると遺骸は既になくなっていた。
イエスの遺骸消失の最初の発見者について、マルコ福音書は、マグダラのマリアと、ヤコブの母マリア、そしてサロメと述べている。ルカ福音書は、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリアとしており、マタイ福音書は、マグダラのマリアと他のマリアとだけ述べている。これに対してヨハネ福音書はマグダラのマリア一人と記述している。
マグダラのマリヤだけが、4書に共通しているが、外典ピリポ福音書は、マグダラのマリヤがイエスの妻であったことを暗示している。
ヤコブとは、イエスの死後、教団を率いたイエスの弟ヤコブ、その母親とは、すなわちイエスの母親である。イエスの死後、マグダラのマリアはイエスの母に常に付き添っていたとされる。
サロメはトマス福音書(61)の中でイエスに向かい「あなたは誰なのですか。一人から出たような人よ。あなたは私の寝台にのぼり、そして私の食卓から食べました。」と問うている。
ヨハンナは、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスの執事クーザの妻。洗礼者ヨハネを斬首に処したヘロデ王の執事の妻がイエスの伝道に最後まで付き従ていたのは興味深い。
復活信仰
ヨハネ福音書によると、イエスが十字架刑にかけられて2日後の週の初めの日の夕方、弟子たちが、出入り口に鍵をかけ、締め切った家の中に集まっていると、イエスが現れた。イエスは、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ。父が私を使わしたように、私もあなた方を使わす」と、弟子たちに使徒としての道を歩むよう激励した(ヨハネ20:19-23)。
しかし、十二使徒の一人で、ディディモと呼ばれるトマスはその時、その場に居なかった。弟子たちが、「私たちは主にお目にかかった」と語ると、トマスは「手の釘穴を見、指をその穴に、手を脇腹に差し込まなければ、信じない」と語った。
八日の後、弟子たちがやはり閉め切った家の中に集まっていると、イエスが再び現れ、トマスに向かって「あなたの指を私の手の穴に、また手を私の脇腹に差し込んで見よ。疑うことを止め信じよ」と叱咤した。トマスはイエスに向かって「我が主、我が神」と絶叫したが、イエスは「あなたは私を見て信じたのか。見なくても信じるものは幸いだ」と諭した(ヨハネ20:24-29)。
ヨハネ福音書の著者は、ここでイエスの口を借り「見えるものではなく、見えないものを信じるのが信仰である」、「自分はイエスを見たから復活を信じたのではない。イエスの教えを守り、実践するものは、常にイエスとともにあるのだ」と強調したかったのだろう。
イエスが生前たびたび復活を予告していたため、遺骸の消失を巡り、弟子たちの間に様々な復活信仰が生じた。しかし懐疑主義者とされたディディモ・ユダ・トマスは、他の弟子とは異なる信仰を持っていたようだ。
タルピオットの墓
ちなみに、シンハ・ヤコボビッチ/チャールズ・ペルグリーノ共著ジェームズ・キャメロン序言『キリストの棺』によると、東エルサレムに隣接した東タルピオットの建設現場で1980年に発掘された墓からは、アラム語で、『ヨセフ』、『ヨセフの子、イエス』、『マリヤ』、もう一人の『マリヤ(おそらくマグダラのマリアもしくはマリア・サロメ)』、『マタイ』、『イエスの子、ユダ』等と刻まれた10個の骨壺が出土した。これら聖書の登場人物の名は、どれも当時のありふれた名前だが、同時に一つの墓に存在する確率は単純計算で250万分の1、さまざまなマイナス因子を掛け加えても600分の1で、イエスの家族の墓である可能性は極めて高いと言う。
ヤコブの骨壺
一方、テルアビブ在住の骨董収集家オデッド・ゴラン氏は、1970年代に東エルサレムの骨董品業者からやはりアラム語で『ヨセフの子ヤコブ、イエスの兄弟』と刻銘された骨壺を手に入れた。地質学者アリエ・シムロン氏は、『タルピオットの墓』の内装品から採取した成分と『ヤコブの骨壺』から採取した成分の間の地質化学的共通性から、『ヤコブの骨壺』が元々『タルピオットの墓』に埋葬されていたことを立証する研究に取り組んでいる。ジェイコボビチ氏とそのサポーターらは、「首尾良く立証されれば、『タルピオットの墓』がイエス・キリストの家族のものであった可能性が一層高まる」と指摘している。
『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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