弟子たちがイエスに言った、「私たちの終わりがどうなるかを、私たちに言って下さい。」イエスが言った、「あなた方は一体終わりを求めるために、初めを見出したのか。なぜなら初めのあるところに、そこに終わりがあるであろうから。初めに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終わりを知るであろう。そして死を味わうことがないであろう。」(トマス18)
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初めのあるところに終わりがある。初めに立つものは、その時点で既に終わりを知っており、永遠の命を得ることができる。人生の初めをその終わりに結びつけてスタートするものは、この世にいて既に神の国に遊んでいる。
○福音の起源
『御国の到来』を告げる福音書は、当初は教会ごとに独自のバージョンが用いられていたものと見られ、『トマス福音書』もその一つだったのだろう。その起源を辿れば、ヘレニズム社会にユダヤ教を広めるプロパガンダ媒体としてギリシア語版旧約聖書が用いられた頃にまで遡る。プトレマイオス2世(在位288BC-246BC)の命で編纂されたとされるギリシア語版旧約聖書の威力はすさまじく、テレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によると、西暦1世紀初頭には、異邦人ユダヤ教徒の数がイスラエル本土のユダヤ人(約80万)の数倍の400万人に達したとされる。
大祭司カイアファの屋敷に隣接したエッセネ派の集会所で発足したエルサレム教会は、同集会所のオーナー、マリア・サロメの息子で、バルナバの甥でもあるヨハネ・マルコに、イスラエル国内のユダヤ教徒と海外異邦人ユダヤ教徒を統括する新組織としての役割が期待されたエルサレム教会のプロパガンダを盛り込んだ福音書の編纂を託したものと見られる。
○『マルコ福音書』
ヒエラポリス司教を務めたギリシア人使徒教父パピアス(60–163)によると、ペトロの通訳も務めたマルコが、ペトロから聞いたことをまとめて『マルコ福音書』を著した。マルコはパウロの第一回伝道旅行に随行したが、途中で伝道を放棄、一人だけ帰国してしまった(使徒13:13)。伝道旅行を準備し、案内役も務めたバルナバが、甥のマルコを第二回伝道旅行にも同伴しようとしたところ、パウロが反対し、激論の末、バルナバとマルコは、パウロとは別のコースをとったと言うエピソードが『使徒行伝』に紹介されており(使徒15:39)、マルコとパウロは当初余ほどそりが合わなかったようだ。しかしパウロは『コロサイ人への手紙(コロサイ4:10)』、『ピレモンへの手紙(ピレモン1:24)』、『テモテへの手紙二(テモテ二4:11)』等において、マルコを信頼する同労者と述べている。したがってマルコは、
神学的立場を異にし、敵対すらしていたらしいパウロとペテロ双方の晩年に近習し、両者と緊密な関係を維持しながら、教会運動全体のプロパガンダを盛り込んだ『マルコ福音書』を編纂したものと見られ、その成立は西暦65-70年頃とされる。
○『マタイ/ルカ/ヨハネ福音書』
名目的ににしろ各派を統括していたエルサレム教会が、西暦66年と70年に二度発生したユダヤ戦争にともなって消滅すると、ローマ軍に包囲される直前にイエスの弟シモンに率いられ、ヘロデ王家の支配地ペレアに避難したヘブライスト・グループや、パウロ(すでに死去)やルカに率いられたローマを拠点にした異邦人教会グループ、そしてエーゲ海の孤島パトモスに流刑され、その後小アジアのエフェソスを拠点に活動したとされるゼベダイの子ヨハネに率いられるグループにより、それぞれのプロパガンダを反映した『マタイ福音書』、『ルカ福音書』、『ヨハネ福音書』が編纂されたのだろう。
しかしルカが伝承どおりパウロの生前に後者から聞き取って書いたとすれば、『ルカ福音書』は西暦60-63年、『使徒行伝』は63-64年には既に成立していた可能性があり、『マタイ福音書』は遅くとも西暦85年頃、『ヨハネ福音書』は81-96年、『黙示録』は96年頃に完成したようだ(日本語Wiki)。
○『Q資料』との並行記事
『共観福音書』と呼ばれる『マタイ/マルコ/ルカ3福音書』は、相互に類似する記述が多いことから、いわゆる『Q資料(Qはドイツ語の資料Quelleの頭文字)』と称される共通の語録が存在し、これを元に三福音書が誕生したと言う仮説が立てられた。その後、1945年にナイル川上流のナグハマディで発見されたコプト語の古文書の中に、Q資料に極めて近い語録集『トマス福音書』が含まれていたため、この仮説が実証された形になった。
しかしながら、『共観福音書』と『トマス福音書』を対照してみると、『マルコ/マタイ/ルカ三福音書』に共通する節の少なからぬものが、『トマス福音書』に存在しないことに気づく。日本語版Wikiの説明によると、『マルコ/マタイ/ルカ三福音書』に共通する記述は、389節存在すると言う。『トマス福音書』は元々114節しかないから、大部分(389節-114節=275節)が含まれないのは当然として、旧約の神(創造神)や『終末論=最後の審判』を否定する『トマス福音書』には、旧約聖書を字義通り引用した箇所は皆無で、病人を癒やす類いの奇跡伝承も存在しない。
それでは、『共観福音書』と『トマス福音書』に並行する記述はどんな内容かと言えば、『聖霊』、『御国』、『真理』等、キリスト教神学の根幹に関するもので、『トマス福音書』には、極めてユニークで、往々にして過激な解釈が記述されているが、『共観福音書』は、恐らくイエス自身に由来するこうした解釈や概念を旧約の伝統に引き戻し、調和させることに腐心している。
○イエスの終末預言
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。またオリーブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、また飢饉が起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。(マルコ13:1-37)
○クリスチャン・シオニズム
『マルコ福音書』の以上の終末預言は、『マタイ福音書(マタイ24;1-51)』と『ルカ福音書(ルカ21:7-38)』にも存在する。取り分け『マルコ福音書』と『マタイ福音書』の以下の記述は、全世界の選民をエルサレムに呼び集めるためにイスラエルを復興すると言うクリスチャン・シオニズムの重要な根拠になったようだ;
その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。 (マルコ13:24-27/マタイ24:30-31/ルカ21:27)
『ヨハネ福音書』では、このくだりが大祭司カイアファの預言として示されている:
彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカイアファが、彼らに言った、「あなたがたには、何もわかっていないし、ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようにするのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。
この発言を受けてエルサレムの宗教界は、イエスを十字架にかける計画に着手したと『ヨハネ福音書』は、付言している。(ヨハネ11:49-57)
○『トマス福音書』の終末待望論批判
これに対して、『トマス福音書』のイエスは、「始めに立ちさえすれば、終わりは自ずから知ることができ、そのものは死を味わうことがない」と説いており、正統派の終末待望論を揶揄しているように見える。『始めに立つ』は、『ヨハネ福音書』の冒頭の言、「初めに言葉があった。言葉は主と共にあった。言葉は神であった。彼は初めに神と共にあった。すべてのものは、彼によってできた。できたもののうち、一つとして彼によらないものはなかった。(ヨハネ1:1-3)」や『黙示録』の「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。(黙示22:13)」を想起させる。
○法華経化城喻品
古代インドの伝承によると、無量劫(1劫=宇宙が誕生してから消滅するまでの期間)の昔、8000劫にわたって法華経を説かれたとされる大通智勝佛が、魔羅の軍勢を退治し、阿耨多羅三藐三菩提(至高の悟り)に入るため十劫の間結跏趺坐したが、仏法は現前しなかった。しかしさらに十劫端坐したところ、終に完璧な悟りに到達した。それから大通智勝佛は、段階を追って説法を開始、終に至高の教え法華経を説き明かされた。大通智勝佛には16人の息子がおり、皆仏道を成就した。その内、9番目の息子が阿弥陀仏で、16番目が釈迦牟尼仏陀だった。釈迦牟尼仏はその成道の因縁を「自分は、宇宙語で語る大通智勝佛から仏法の秘伝を習った」と述べられたと言う。(妙法蓮華経化城喻品第七)
○不成佛
時代は下り中国の五代十国(907-960)の時代に郢州(現在の湖北省鄂州)興陽山の清譲禅師に、一人の僧が「大通智勝佛が10劫の間坐禅をしても、仏法が現前せず、本人すら悟れなかったのは、何故か」と質問した。すると、譲和尚は「好いところに気がついたな。褒めてやる」と持ち上げた。しかしその僧は満足せず「坐禅を組んでも仏道が成就しないのは何故だ」とさらに突っ込んだ。譲和尚は「そやつが不成仏(ふじょうぶつ)だからだ」と答えた。
『無門関』と言う公案録をのこした宋代の禅僧、無門慧開(むもんえかい1182-1260)和尚はこの公案に「わしは達磨の悟りは認めても、あの胡子(えびす)の智慧は許さん。凡夫が悟れば仏だが、仏が悟れば凡夫だ」と注釈を付け、さらに「解身(げしん)は解心(げしん)に如かず、解心すれば、身自ずから休す、身心ともに了(りょう)ずれば、神仙なんぞ位階名利を求めん」と頌をつけた。つまり身心脱落(しんしんだつらく)すれば、成仏も不成仏もない、十劫でも百劫でも只管打坐(しかんだざ)するだけである。<以下次号>
【参照】
○《無門関》第九則:大通智勝佛
本則(ほんそく):興陽(こうよう)の讓和尚(じょうおしょう)、因(ちな)みに僧問う、「大通智勝佛(だいつうちしょうぶつ)、十劫(じゅうごう)坐道場(ざどうじょう)、佛法(ぶっぽう)不現前(ふげんぜん)、不得成佛道(ふとくじょうぶつどう)の時如何。」讓曰く、「其の問い甚(はなは)だ諦當(ていとう)なり。」僧云く、「既に是れ坐道場、甚麼(なん)としてか不得成佛道なる。」讓曰く、「伊(かれ)が不成佛(ふじょうぶつ)なるが爲めなり。」
評唱(ひょうしょう):無門曰く、「只だ老胡(ろうこ=達磨)の知(ち)を許して老胡の會(え)を許さず。凡夫若し知らば既に是れ聖人、聖人若し會せば既に是れ凡夫。」
頌(じゅ):身を了(りょう)ずるは、何ぞ心を了じて休するに似(じ)せん。心了得(りょうとく)すれば、身は愁えず。若(も)し也(ま)た心身倶(とも)に了了ならば、神仙(しんせん)何ぞ必ずしも更に候に封ぜん。
○《普勧坐禅儀》
身心脱落 所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋(たず)ね語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休(きゅう)すべし。 須らく回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。 身心(しんじん)自然(じねん)に脱落(だつらく)して(身心脱落)、本来の面目現前(げんぜん)せん。 恁(いん)もの事(じ)を得んと欲せば、急(きゅう)に恁(いん)もの事(じ)を務めよ。
只管打坐 凡(およ)そ夫(そ)れ、自界他方、西(さい)天東地、等しく仏印(ぶっちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。 唯(ただ)打坐(たざ)を務(つと)めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂(い)うと雖(いえど)も、祗管(しかん)に参禅弁道すべし(只管打坐)。
○『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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