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2018-09-08 ArtNo.46367
◆書評:聖霊のバプテスマ(毘盧頂上を踏んで行け)




 イエスが言った、「単独者として選ばれた者は、幸いである。なぜなら、あなた方は御国を見出すであろうから。なぜなら、あなた方はそこから来たのだから、再びそこに行くであろうから。」(トマス49)

○贖罪信仰と聖霊のバプテスマ
 新約聖書は、『聖霊のバプテスマを受けたものだけが、永遠の命を得て、御国に入ることができる』と説く一方で『イエスは生前には聖霊のバプテスマを施さなかった』と言う立場をとっている。これは、『人類が犯した罪を一身に負って十字架にかかったイエスを救世主として認め、そのことを告白したものだけが救われる』と言うもう一つの教義(贖罪信仰)に照らして、『生前のイエスが十字架にかかる前に聖霊のバプテスマを施すはずがない』と言う解釈に基づいている。
 パリサイ派最高法院(サンヘドリン)議員のニコデモに、イエスは「だれても新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネ3:3)。水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできず、肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからと言って、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである(ヨハネ3:5-8)」と述べ、『聖霊のバプテスマ』が『霊的再生』を遂げさせることに他ならないことを明かしている。

○警句による説教




 対照的に、外典『トマスによる福音書』は、『贖罪信仰』が確立する前に成立した語録と見られ、イエスが十字架に処せられた事実さえほとんど触れていない。このため、対話を通じて弟子達の霊的再生を促すイエスの姿が全編に散りばめられており、ヨルダン川に突然独りで現れ、ヨハネから洗礼を受ける以前のイエスの活動を窺い知ることができる。
 横道にそれるが、イエスは、その教えを自分で書き残こすことはなかった。しかし新約聖典の4つの福音書のうち『共観福音書』と呼ばれるマタイ/ルカ/マルコ3福音書は、相互に類似する記述が多いことから、いわゆる『Q資料(Qはドイツ語の資料Quelleの頭文字)』と称される共通の語録が存在し、これを元に三福音書が誕生したと言う仮説が立てられた。その後、1945年にナイル川上流のナグハマディで発見されたコプト語の古文書の中に、Q資料に極めて近い語録集『トマスによる福音書』が含まれていたため、この仮説が実証された形になった。
 『聖霊のバプテスマ』は、その後、イエスの双子の兄弟と称されるディディモ・トマス(ディディモはギリシア語で双子、トマスもアラム語で双子を意味する)によりインドに伝えられたようだ。エルマーR.グルーバー/ホルガー・ケルステン両氏の共著『イエスは仏教徒だった?(The Original Jesus - Buddhist Sources of Christianity)』は、「イエスはたとえ話とメシャリーム(箴言/警句)を好んだが、イエスがQ資料の中で用いたメシャリームとウダナヴァルガ(法句経)の説話は驚くほどの対称をなしており、禅仏教は、のちに警句による教えの伝統を『公案(師家が参禅する学人に与える仏教の教義を学び実践するための課題)』と言う極地にまで高めた」と述べている。

○聖なる単独者




 『トマスによる福音書』の中心テーマは『聖なる単独者に立ち返る』と言うことに尽きる。
 「単独者として選ばれた者は、幸いである。なぜなら、あなた方は御国を見出すであろうから。なぜなら、あなた方はそこから来たのだから、再びそこに行くであろうから(トマス49)」。日本語版『トマスによる福音書』の著者、荒井献氏によると、『選ばれた者』、『単独者』とは、『分裂を超えて、原初的統合(propator = original Self)を自己の内に回復する者』を意味し、この本来の自己による支配の実現が『御国』の現成を意味する。
 イエスは「もしあなた方を導くものが、あなた方に、『見よ、御国は天にある』と言うならば、天の鳥があなた方より先に御国へ来るであろう。彼らがあなた方に、『それは海にある』と言うならば、魚があなた方よりも先に御国へ来るであろう。そうではなくて御国はあなた方のただ中にある。そしてそれはあなた方の外にある。あなた方があなた方自身を知る時に、その時にあなた方は知られるであろう。そしてあなた方は知るであろう。あなた方が生ける父の子らであることを。しかし、あなた方があなた方自身を知らないなら、あなた方は貧困の中にあり、そしてあなた方は貧困である(トマス3)。」

○神の独り子




 それでは、どうしたら、自分が神の子であると言う自覚を得られるだろうか。『言葉が神と共にあり、神そのものであった(ヨハネ1:1-2)』原初に立ち返るなら、換言すれば、『父母未生以前の本来の面目』を覚知するなら、アルパでありオメガであるイエス・キリストに同期し、『天上天下唯我独尊、草木国土悉皆成仏』と証見した仏陀とともに究極の救い(永遠の命)を得ることができる。その時、御国はあなたの内にあり、また外にある。
 ちなみにグノーシス主義における『独り子(アウトゲーネス)』には、『自ら生まれたもの』と言う意味が存在し、ヨハネ福音書は、全編を通じて、天地開闢以前に神とともにあり、神そのものであった言葉(ロゴス)から万物が創造され、それが、イエスの実体であることを説き明かしている。シモン・ペテロも「あなたは永遠なる命の言葉を持っており、われわれはあなたが聖なる単独者であられることを信じ、知っております(ヨハネ6:68-69)」と、極めてグノーシス的、したがってまた仏教的な証しを行っている。

○毘盧頂上を踏んで行け




 時代は下り、中国唐王朝の中頃、六祖慧能(えのう)禅師の法を嗣ぎ河南省南陽白崖山党子谷の寺に40年間住持した南陽慧忠(なんよう・えちゅう)禅師は、西暦761年、唐朝第10代皇帝粛宗(しゅくそう)の勅命を受け長安に上り、宮廷に参内した。
 父玄宗(げんそう)皇帝の時代に発生した安禄山(あんろくざん)史思明(ししめい)の乱により、潰走した朝廷軍により、皇帝に擁立された粛宗は、何とか首都長安を奪還したものの、依然として反乱軍が各地に割拠している最中のことだった。
 この時、慧忠禅師は長安の千福寺西禅院に住し、太上皇(玄宗)にも拝謁したが、玄宗は翌762年に崩じ、その数日後に粛宗も亡くなた。しかし代わって即位した代宗(だいそう)も慧忠禅師を国師として厚く遇し、改めて光宅寺を賜ったと言う。
 ちなみに、北宗禅の開祖として則天武后の帰依を受けた玉泉神秀禅師(606?-706)は、「五祖弘忍の正嫡は慧能である」とし、六祖慧能の講義を聴くよう中宗(高宗と武則天の子)に上奏したが、慧能は神秀の再三の説得にも関わらず病を理由に上京しなかった。師匠の慧能が唐王朝の全盛期に固辞した国師のポストを、安史軍の残党が割拠し、宮廷紛争が頻発するこの時期に、引き受けた慧忠国師には並々ならぬ覚悟があったものと見られる。




 慧忠国師が宮中の正殿にのぼるや、待ちかねた粛宗皇帝は、直ちに「仏は、臨機応変に衆生を済度する『十身調御(じつしんちょうご)』の術(すべ)を心得ておられるそうですが、是非その極意をお示し頂きたい」と請うた。
 外戚や宦官が跳梁する中で、勝手に軍を動かした異母弟の討伐や塩の専売制を通じた財政立て直しに腐心する粛宗のこの問いが、並大抵のものでないことは、慧忠国師も熟知していたに違いない。しかしその答えは、粛宗の予想は遙かに超えていた。
 唐王朝は武則天の治世以来、道教に替えて仏教を内政外交の主軸に据え、仏法僧三宝を手厚く保護していたが、慧忠国師は「毘盧頂上を踏んで行かれよ」と答えた。つまり宇宙を体現する毘盧遮那仏の頭を土足で踏みつけて行けと言うのである。
 あっけにとられた粛宗は、「おっしゃる意味が分かりません」と反問した。すると慧忠国師は「清浄法身などに捕らわれなさるな」と付言した。

○現成公案は真剣勝負




 これは梁の武帝と達磨の対決同様真剣勝負であり、傍から講釈する余地はないが、敢えて華厳の教義に照らして解釈を試みれば、因縁所生の現世の法(事:特殊性)と個々の特殊性を貫通する普遍性(理)の二軸に立って解決がつかないなら、理と事を止揚する第三の道、中道もあると言うことだろう。毘盧遮那仏を向こうに置いて六根清浄に努めるのもいいが、先ず毘盧遮那仏(宇宙)と一体になり切って見てはどうか。煩雑に絡み合った多くの対立軸が見え、解決策が見いだされるかも知れない。たとえ今解決できなくても何れ決着がつくことが分かるだろう。宇宙が自分なら、その中の一部が勝ち、別の一部が負けようが、自分のことに過ぎない。
 これを民主主義社会の現代に置き換えて見れば、米露EU中印等の指導者のみならず各国の国民一人一人が先ず宇宙人になり切り、つまり宇宙のモーメンタムに同期し、地球にとって、宇宙にとって最善の策を見い出すこと、その後で、その最善策を実現するために米国人としてロシア人として、欧州人として中国人としてインド人として、何ができるかを考えるのも一策だろう。
 イエスのQ語録と好一対と評されるウダナヴァルガ(法句経)は、この道理を次のように説いている。「悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(天国)に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう。(中村元訳『感興のことば:第1章『無常』第24節』)」つまり死後に赴く地獄と天国だけでなく、この身このまま赴くことのできる御国は常にそこに存在している。しかし答えは、あなた自身が見いだす外なく、さもなければ、あなたは決して安心することができない。<以下次号>





○『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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【参照】

○《碧巌録》第九十九則:毘盧頂上を踏み行け
 挙(こ)す、粛宗帝(しゅくそうてい)、忠国師に問う、『如何なるか是れ十身調御(じつしんちょうご)』。
 国師云く、『壇越(だんのつ)、毘盧(びる)の頂上を踏み行け』。
 帝云く、『寡人(かじん)会(え)せず』。
 国師云く、『自己の清浄法身を認むる事莫(なか)れ』。

○世界は一つ:



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