使徒パウロは、その生涯に三度大宣教旅行を行っただけでなく、各地の異邦人ユダヤ教徒コミュニティーに頻繁に書簡を送り、『肉によらぬキリスト(コリント二5:16)』信仰の組織的な流布を図った。最後に護送されたローマにおいてさえ、彼はこうした組織的な布教活動を続けていたようだ。このため、ユダヤ戦争後続々完成した新約聖書の基調は、多かれ少なかれパウロ神学を取り入れた内容になっている。しかし≪クレメンス文学≫は、発足当初のローマ教会の内部で、ペテロら十二使徒が説く『イエスの生前の教え』を重視するか、パウロの幻の中に現れた『肉によらぬイエスの教え』を重視するかを巡り、両大使徒の殉教後も100年以上にわたって、深刻な論争が展開されていたことを示している。
○パウロとシモン・マグスの相似性
テュービンゲン学派の創始者、フェルディナント・クリスティアン・バウア(1792–1860)は、≪クレメンス文学≫の反パウロ主義に注目し、シモン・マグスとペテロの論争の中で、シモン・マグスの一部の主張(生前の主ではなく、幻の中での主との対面等)は、実際にはパウロの主張を想定しているとし、ペテロによるシモンの論破はパウロの主張の論破を意図したものであると示唆している。
ベルリンのハーマン・デターリング牧師は1995年に、≪クレメンス文学≫の隠された反パウロ主義には、史的根拠があり、≪使徒行伝≫第8章の魔術師シモンとペテロの対決自体、ペテロとパウロの対立をベースにしたものと述べており、ジョニー・コレモン神学校のロバート・マクネイア・プライス教授も2012に出版したその著≪驚くべき偉大な使徒:歴史上のパウロを探る≫においてこの点を大いに論じていると言う。
≪クレメンス文学第17訓辞(the 17th Homily)≫においてパウロとシモン・マグスとの同一性が具現されている。じかに生前のイエスを見、生前のイエスと会話したイエスの弟子たち以上にイエスの心を熟知していると主張するために、シモンは用いられている。彼のこの奇妙な主張の根拠は、『幻は醒めた実像に勝っている。なぜなら神性は人間性に勝るからである』と言う点に依拠している。ペテロはこうした主張に大いに反駁しているが、中でも注目されるのが、以下の一節である。
○ペテロのパウロ神学批判
しかし、誰にしろ幻により教えを習得できるだろうか。もしあなたが「それは可能だ」と言うなら、主が、幻ではない現実の世界に常在し人々と語り合ったのはなぜだろう。譬えあなたに彼(主)が現れたにしろ、我々はどうしてあなたを信じることができるだろう。あなたの感情が彼の教えを受け入れていないのに、彼はどうしてあなたに現れたのだろう。しかしもしあなたにただ一度でも主が現れ、教えられたのであれば、そしてあなたが使徒になられたのなら、御言葉を説き、御心を述べ伝え、使徒たちを愛し、主と直接対話した私を敵視することはない。なぜならそれは、教会の岩盤、礎に反対することであり、あなたは私に反対することによりあなた自身に反対しているからである。もしあなたが悪魔でなかったなら、あなたは私を中傷せず、私を通じてなされた教えを冒涜することはなかっただろう。なぜなら、私は主から賜った内なる自分(聖霊)に聞き従うので、私が語る時、私があたかも断罪されたもの、堕落したもののように思われたことはないのだから。あるいは、仮にあなたが私を断罪するなら、あなたは、私にキリストを顕現された神を非難し、啓示により私を祝福した神を罵っているのである。しかし仮にあなたが本当に真理に依拠して働くことを望むなら、我々が彼から学んだように、先ず我々に学びなさい。そしてあなたが真理の弟子になるなら、我々の同行者になることができる。(英語版Wikiから抜粋)
○肉と霊の統合
しかし新約聖書正典の一つ『ペテロの手紙二』は、複数のパウロの書簡を引用した上、「また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(ペテロ二3:15-16)」と述べている。この書簡は、ペテロの死後に別人によって書かれたものと見られるが、教会内のペテロ派とパウロ派の和解の努力が窺える。
○生ともいわじ、死ともいわじ
中国唐代(618-907)の後期、道吾円智禅師(769-835)は、葬式をいとなむため典座(寺社の賄い方:炊事番)の漸源仲興禅師を連れて檀家の家に赴いた。典座を任されていただけあって漸源は一筋縄ではいかない弟子だったようだ。檀家の家に着くと、さっそく棺桶をコツ、コツと叩き、「生か死か」と師匠に問答を吹っかけた。すると道吾は「生ともいわじ、死ともいわじ」と答えた。漸源は「なぜ言わぬ」と詰問した。しかし道吾は「いわじ、いわじ」と繰り返した。
皆が死者を悼み悲嘆に暮れている最中に、葬儀をそっちのけにして棺桶の前で問答すると言うのは、如何に禅僧と言え異様だが、あるいは、誰もが必ず通過せねんばならない人生の節目の行事を利用して、師弟が両両相まって一場の法話垂れたのかも知れない。
葬式が終わって帰る途中、漸源は、また「和尚、すみやかに某甲(それがし)がために言え、もし言わずんば、和尚を打ち去らん」と先の問答をぶり返した。すると道吾は「打ちたければ打つがいい。しかしワシは言わん」と応じた。すると漸源は本当に師匠を打ちのめした。
○洪波浩渺、白浪滔天も好日
道吾はその後しばらくして遷化した。漸源は、兄(あに)弟子に当たる石霜慶諸禅師(807-888)を訪ね、先の商量(しょうりょう:禅問答)の一部始終を話した。すると石霜も「生ともいわじ、死ともいわじ」と答えた。漸源が「なぜ言わない」と言うと、石霜は道吾と同じように「いわじ、いわじ」と繰り返した。その刹那、漸源はハタと悟った。
その後、暫くして漸源が鍬を担いで禅堂の中を西から東、東から西へ行きつ戻りつしているのを見た石霜が、「何をしている」と尋ねると、漸源は「先師の霊骨を探している」と答えた。石霜禅師が「洪波浩渺、白浪滔天(こうはこうびょう、はくろうとうてん:はてしない大海原に怒濤が逆巻いている)、先師の遺骨など見つかるはずがない」と言うと、漸源は「それなら探し甲斐がある」と嘯(うそ)ぶいたと言う。
○生死一如
それから時代は下って日本の幕末明治の頃、幼少時から剣術と禅の修行を積み、勝海舟(1823-1899)や西郷隆盛(1827-1877)とともに江戸城の無血開城に貢献し、明治天皇の侍従も務めた山岡鉄舟(1836-1888)は、剣禅一味、生死一如の境地に達し、一刀正伝無刀流を創始した。
鉄舟はある日、小浜藩江戸屋敷の剣術指南役浅利義昭(1822-1894)と試合したが、三時間余り経っても勝負がつかず、鍔迫り合いから足がらみで義昭を押し倒したものの、倒れ際に胴を取られ、敗れた。翌日直ちに義昭に弟子入りした鉄舟は、義昭を超えるべく剣術と禅の修行を続け、1880年、忽然大悟、義昭を招いて立合いを求めた。しかし、義昭は最早立ち会う必要は無いとして、鉄舟に中西派一刀流別家の印可を授けた。鉄舟は、その後、一刀正伝無刀流を創始した。
鉄舟は1883年に勤王佐幕の別なく国事に殉じた志士を祭るため全生庵を建立した。全生庵の平井住職は、「厳しい修行で剣禅一如の境地に達した鉄舟は、明治維新という激動の時代のなかで1人も人を斬らなかったことでも知られています。最高の剣の境地というのは、刀を抜かないで争いを収めることなのでしょう」と語る。
胃癌で1888年7月19日に享年52歳で逝去した鉄舟は、「お医者さん、胃がん胃がんと申せども、いかん中にも、よいとこもあり」、「苦しみを転じて、楽しみを為す。生死は天に任して、褥に臥するのみ」等と歌を詠み、癌との共生を楽しんでいたようだ。その日、見舞いに来た勝海舟が「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うと、ニコッとして「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と答えたと海舟は回想している。「よろしくご成仏あられよ」と言って辞去した海舟は自宅に戻るまでに使者から鉄舟の死を伝えられたと言う。(ソース:政経電論/馬込文学マラソン/野人の叫び)(以下次号)
【参照】
○山岡鉄舟真筆
○《碧巌録》第五十五則 道吾漸源と弔慰す
[本則]
挙す、道吾漸源と、一家に至って弔慰す。源棺を拍って云く、生邪死邪。(什麼と道ふぞ。好し惺惺ならず。這の漢猶ほ両頭に在り。)
吾云く、生とも也道はじ、死とも也道はじ。(龍吟れば霧起こり、虎嘯けば風生ず。帽を買ふに頭を相ず。老婆心切。)
源云く、什麼としてか道はざる。(蹉過了也。果然として錯って会す。)
吾云く、道はじ、道はじ。(悪水驀頭に注ぐ。前箭は猶ほ軽く後箭は深し。)
囘って中路に至って、(太だ惺惺。)源云く、和尚快やかに某甲が与に道へ、若し道はずんば、和尚を打し去らん。(卻って些子に較れり。穿耳の客に逢ふこと罕に、多く舟を刻むの人に遇ふ。這般不喞留の漢に似たらば、地獄に入ること箭の如し。)
吾云く、打つことは即ち打つに任す。道ふことは即ち道はじ。(再三須らく事を重んずべし。就身打劫。這の老漢満身泥水。初心改めず。)
源便ち打つ。(好打。且らく道へ、他を打って什麼か作ん。屈棒元来人の喫する有る在り。)
後に道吾遷化す。源、石霜に到って、前話を挙似す。(知って故さらに犯す。知らず是か不是か。是ならば即ち也太奇。)
霜云く、生とも也道はじ、死とも也道はじ。(はなはだ新鮮。這般の茶飯卻って元来人の喫する有り。)
源云く、什麼としてか道はざる。(語一般なりと雖も意に両種無し。且らく道へ前来の問と是同か是れ別か。)
霜云く、道はじ道はじ。(天上天下。曹溪の波浪如し相似たらば、限り無き平人も陸沈せられん。)
源言下に於て省あり。(瞎漢。且つ山僧を瞞ずること莫くんば好し。)
源一日鍬子を将って、法堂に於て、東より西に過ぎ、西より東に過ぐ。(也是れ死中に活を得たり。好し先師の与に気を出すに。他に問ふこと莫れ。且らく這の漢一場の漏羅するを看よ。)
霜云く、什麼をか作す。(随後婁数也。)
源云く、先師の露骨を覓む。(喪車背後に薬袋を懸く。悔ゆらくは当初を慎まざりしことを。汝什麼と道ふぞ。)
霜云く、洪波浩渺、白浪滔天、什麼の先師の露骨か覓めん。(也須らく他の作家に還して始めて得べし。群を為し隊を作して什麼か作ん。)
雪竇著語して云く、蒼天蒼天。(太遅生。賊過ぎて後弓を張る。好し与に一坑に埋卻するに。)
源云く、正に好し力を著くるに。(且らく道へ、什麼の処にか落在す。先師曾て汝に向かって什麼とか道ひし。這の漢頭より尾に到り、直に如今に至るまで出身することを得ず。)
太原の孚云く、先師の露骨猶ほ在り。(大衆見る麼。閃電に相似たり。是れ什麼の破草鞋ぞ。猶ほ些子に較れり。)
○『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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