劫火(ごうか)光中(こうちゅう)に 問端(もんたん)を立つ
衲僧(のうそう)なお両重(りょうじゅう)の関(かん)に滞(とどこう)る
憐れむべし一句 他に随うの語
万里区々(くく)として独り往還(おうかん)す
○パウロ神学の起源
ガラテア信徒への手紙の中で、パウロは、「アラビアからダマスコに戻った後、3年を経てエルサレムに赴き、ペテロの家に15日間滞在したが、この時エルサレムで会ったのは、ペテロ以外にはイエスの弟ヤコブのみだった(ガラ1:17-19)」とし、「自分が説く教えは、人から出たものではなく、エルサレムの長老や使徒から教わったものでもない。イエスから直接啓示されたもので(ガラ1:11-12)、自分は生まれる以前に神により聖別され、時が来たらイエスに関する福音を異邦人に伝える器として初めから準備されていたのだ(ガラ1:15-16)」と主張している。パウロは、「イエスを救世主として認めさえすれば、終わりの日には永遠の命を得て復活できる」と説き、この福音に、モーゼの律法を含む一切の条件を付けることを拒否した。しかし、パウロ神学の根幹を成すこうした信仰は、決してパウロ独自のものではなく、その実、パウロは、ヘブライストとヘレニストの紛争を処理する過程で、後者から学んだものと見られる。
○パウロの万里往還
第二回伝道旅行に際して『解放された奴隷の会堂』の勢力地域における布教を聖霊から禁じられた(使徒16:6)パウロは、ギリシアに直行、北部のマケドニアから南部のアテネまで縦走したが、第三回伝道旅行では、聖霊の禁を犯してアジア州における布教を行い、ギリシアも再訪、その際、ギリシア南部の都市コリントで≪ローマ信徒への手紙≫を書いたとされる。
パウロは、同書簡の中で、エルサレム訪問後、ローマに赴きさらにイスパニアに向かう計画を明らかにしており、ローマ帝国の全域に存在する異邦人信徒コミュニティー全てに『モーセの律法に依らず、信仰によって義と認められるイエスの道(ローマ3:28)』を説き広めることを目指していたようだ。
パウロは『コリント信徒への手紙二』の中で「ですからわたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。たとえ肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません(コリント二5:16)」と述べているが、小アジアにとどまらず、ギリシアやローマにも、異邦人信徒のコミュニティーが存在し、そこでは生前のイエスを全く知らない信徒らによる、『肉によらない救世主信仰』が生じていたものと見られる。
○肉によらない救世主信仰の震源地
取り分けローマには、大量のユダヤ人が流入し、社会不安が生じたことから、ローマの執政官は、パウロが西暦59年頃に同地に到着するまでの188年間に少なくとも3回ユダヤ人追放令を発したとされる。こうしてパウロがエルサレムで行ったヘブライストとヘレニストの棲み分けの真逆の措置により、ローマには、未割礼の異邦人ユダヤ教徒の強固な組織が世界に先駆けて誕生したようだ。
パウロは、十二使徒に代わって一時エルサレム教会の指導権を掌握したステファノを初めとする7人のヘレニスト・リーダーやダマスコにおけるパウロの回心や布教活動を支援したアナニアを初めとする信徒集団にパウロ神学の根幹を成す『肉によらない救世主信仰』の原型を見いだし、その源流をを尋ねてローマに赴く決意をしたものと見られる。
○教会の原型エクレシアの起源
パウロは、第三回伝道旅行の途中ギリシア南部の都市コリントで書いたとされる≪ローマ信徒への手紙≫に、ルフォス親子を含む27のローマ教会リーダーや家族の名を列挙し、宜しくと述べている。その中にはヘロデ王家のメンバーと思しきヘロディオンと言う名も見られる。16章からなる同書簡の内容は膨大で多岐にわたり、パウロ個人の書簡と言うより、パウロが率いる教会運動の立場をローマ教会の信徒に対して明確にするマニフェストだったと言える。コリント信徒の指導者ガイオ、コリント市会計係エラストとその兄弟クワルトの立ち会の下に、コリントに隣接したケンクレアイ在住のテルティオが、同書簡を筆記し、同じくケンクレイアイ在住の女性信徒フェベがローマへの配達を引き受けたようだ。このことからも、ローマには既に未割礼の異邦人ユダヤ教徒による教会組織(エクレシア)の原型が存在し、肉身のイエスを知らない人々によるイエス・キリスト信仰の萌芽が生じていたことが窺える。
○アポロと十二使徒
パウロがまだガラテヤやフリギアを巡回しているころ、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に精通したアポロという雄弁家が、エフェソにやって来た。彼は会堂で大胆にイエスの道を説いたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった(使徒18:24-28)。また一方、≪使徒行伝≫は、パウロがエフェソで出会った弟子たちが、具体的に誰の弟子なのか述べていないが、文脈から見て、アポロの信奉者だったと見られる。≪使徒行伝≫は、「これらの弟子の数は合計12人だった」と付言しており、『十二使徒』の物語の異なるバージョンが存在したことを暗示している(使徒19:1-7)。
○パウロの出自
≪ルカ福音書≫及び≪使徒行伝≫の記述によれば、パウロは小アジアにあるキリキア州のタルソスの町で生まれ、両親がローマの市民権を得ていたため、彼も生まれながらにその権利を引き継いだ。しかし四世紀の神学者ヒエロニムスはこれとは異なる出自を伝えている。パウロの両親はガリラヤ地方、セフォリスの北およそ四十キロのところにあるユダヤ人の町ギスカラの出身で、パウロもそこで生まれた。ヒエロニムスによれば、紀元前四年のヘロデ大王の死後に動乱が起き、パウロの家族はローマ軍に捕らえられ、大勢のガリラヤ人に混じって、パレスチナからキリキアのタルソスに送られた。ノース・カロライナ大学宗教学研究所の所長ジェイムズ・D・テイバー教授は、その著『イエスの王朝』の中で、ヒエロニムスはパウロがタルソスで生まれたと言う≪使徒行伝≫の記述を知りながら、あえて異説を唱えているため、充分な証拠に基づいて書いたと想像され、同教授自身『ヒエロニムスの説が正しいと考えている』と付言している。だとすれば、パウロも『解放された奴隷の会堂』のメンバーであったとしても不思議はない。
○キプロス総督とルフォスの母
パウロは、第1回宣教旅行の過程でキプロス島のセルギオ・パウルス総督と面会した際、そのヘブライ語名サウロをラテン語名パウロに改めており、≪使徒行伝≫は、第一回使徒会議で、パウロとバルナバが異邦人を対象に宣教を行う使徒の地位を認められるはるか以前の、この時以降、早くも『使徒パウロ』の呼称を用いている。こうしたことから、キプロス島のセルギオ・パウルス総督とその息子でピシディア州アンティオキア在住の元老院議員ルキウス・セルギウス・パウルスの一族が、小アジアやギリシア、さらにはローマにおいてさえ、資金と政治の両面からパウロの布教活動を支援していたものと予想され、あるいは、パウロは、ローマ市民権もパウルス一族を通じて手に入れたのではなかろうか。
パウロは、≪ローマ信徒への手紙≫の末尾に「主がお選びになり信者に加えられたルフォスとその母親に宜しく。彼女は私の母でもあります(ローマ16:13)」と記しているが、もしこのルフォスが、イエスに代わってゴルゴタの丘まで十字架を担いだクレネ人シモンの息子と同一人物なら(マルコ15:21/マタイ27:32/ルカ23:26)、
この女性は、ヨセフとマリアに代わってイエスを30歳近くまで育てただけでなく、パウロを回心させた『霊的な母』でもあった可能性があり、もしそうなら、イエスとパウロはこの女性を通じて霊的な兄弟であったといえる。
○劫火洞然
その昔、四川省大隋山の法真禅師(834-915)に、一人の学僧が「劫火(ごうか)洞然(どうねん)として、大千ともに壊(え)す。未審(いぶか)し、這箇(しゃこ)、壊すか、壊さざるか?」と質問した。
この僧は、終末には、燃えさかる劫火により全てが焼き尽くされると言う古代インドの宇宙観に基づき、禅宗が肝心要とする『シャコ(ここのところ)』、つまり『本来の面目』、キリスト教徒の言う『真理の御霊』あるいは『聖霊』も「消滅するのか」と聞いたのである。
ちなみに、四川省東川塩亭県出身の法真禅師は、中国の唐朝末期から五代十国の時代に、潙山霊祐禅師(771-853)を初めとする全国60以上の大善知識に教えを請い、最終的に百丈懐海禅師の弟子長慶大安禅師の法を嗣ぎ、四川省の大隋山に住していた。
古代のインド人は、一千の小世界から成る三千の大世界により構成されたこの世は、①『成劫(クリタユガ:生成)』、②『住劫(トレーターユガ:保持)』、③『壊劫(ドヴァーユガ:壊滅)』、④『空劫(カリユガ:無)』と言うプロセスを辿ると、考えていたようだ。
古代インドの宇宙観を大上段に振りかざして、禅宗の根本理念『本来の面目』も消滅するのかと言う学僧の問いに、大隋禅師は、あっさり「壊す」と答えた。
その僧は「いんもなれば、他に随って去るや」、つまり「大千世界と一緒に無くなってしまうのか」、と重ねて聞いた。
大隋禅師は、「他に随って去る」、「その通りだ」と答えた。
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ちなみに、北宋(960-1127)の時代に別の僧が丹霞子淳禅師(1064-1117),の法嗣隋州修山主禅師に同じ質問をしたところ、修山主禅師は「不壊(ふえ)」と答えた。この僧が「なぜ不壊か」と質すと、修山主禅師は「大千世界と同じだからだ」と答えた。この答えは一般常識からすれば、論理的に矛盾している。いずれにしても大隋禅師は、「シャコも大千世界と同じように消滅する」と言い、修山主禅師は「シャコは大千世界と同じだから消滅しない」と答えた。
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大隋禅師の答えに納得できなかった先の僧は、はるばる河南省舒州桐城の投子山に赴き、翠微無学禅師の法嗣投子大同禅師(805-914)を尋ねた。投子禅師から「今まで何処に居た」と問われた僧が、「西蜀の大隋です」と答えると、投子禅師は、「大隋はどんな話をした」と重ねて聞いた。そこでこの僧が前述の問答の模様を話すと、投子禅師は、焼香礼拝し、「西蜀に、肉身の仏が現われた。お前も直ぐに戻って礼拝せよ」と命じた。その僧が慌てて大隋に戻ると、大隋禅師は既に逝去されていた。この僧は大いに落胆、狼狽したと言う。
碧巌録のコメンテーター、雪竇重顕(せっちょう・じゅうけん:980-1052)禅師は、この公案に「終末の劫火を掲げて質問したが、『壊(え)』と『不壊(ふえ)』の二重の関所に阻まれ立ち往生した上、『他に随う』の一句に翻弄され、万里を独り行きつ戻りつした禅僧こそ憐れなり」と言う頌をつけている。この頌は、くだんの僧を憐れんでいるようにも、禅僧一般を評しているようにも見える。
頌に曰く、
劫火光中(ごうかこうちゅう)に 問端(もんたん)を立つ
衲僧(のうそう)なお両重(りょうじゅう)の関(かん)に滞(とどこう)る
憐れむべし一句 他に随うの語
万里区々(くく)として独り往還(おうかん)す (以下次号)
【参照】
○《碧巌録》第二十九則 大隋劫火洞然
僧、大隋に問う、「劫火洞然として、大千ともに壊す。未審し、這箇、壊するか、壊せざるか?」。
隋云く、「壊す」。
僧云く、「いんもならば他に随い去るや?」。
隋云く、「他に随い去る」。
○衲僧(のうそう、のうす、のっす)
衲衣(のうえ)を着た人、一般に禅僧の意。
宮殿を後にした釈迦牟尼は墓地に捨てられていた死体を包む布きれを拾い集め、縫い合わせた後、サフランの液につけて消毒し、その後ずっとこれを衣として纏った。この伝承に基づき仏教徒の僧侶は、端切れで作った衲衣を着るようになった。こうした衲衣はサフラン染料を意味する梵語から袈裟とよばれる。
○『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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