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2017-06-26 ArtNo.46040
◆書評:聖霊のバプテスマ(襲名)




 過ぎ越しの祭りの日に、神殿の商人を追い払ったイエスの所行を目撃した少なからぬ人々が、これを『印し』と見、『御名』を信じた(ヨハネ2:23)。これらの人々は、決して肉身のイエスを信じたのではない。肉を止揚した御名、すなわち真理の御霊を信じたのである。御名を信じるものは、御名によって、直接神に求め、全き喜びを手にすることができる(ヨハネ16:23-26)。人は皆、天地が開闢する以前から真理の御霊を具えおり(ヨハネ15:27)、イエスは、人から証しを受けるまでもなく、そのことを知っていた。したがってご自身、すなわち真理の御霊を、これらの者に委ねる必要がなかった。(ヨハネ2:24-25)




 インドのナーガールジュナ(龍樹菩薩:150?-250?)はこの道理を「因縁所生の法、我すなわちこれ空と説く。またこれを仮名(けみょう)と為す。またこれ中道の義なり(中論)」と説明された。人間が五官を通じて感知する個々の事象や事物は諸因と諸縁の連鎖により生滅する運動の一過程に仮に付けられた名称に過ぎないから仮名であり、固定した実体がないから空である。とは言え、仮名とは別に真諦が存在する訳ではなく、それは、個々の事象や事物を貫通する普遍性に依拠している。龍樹はこうした立場を中道と説いた。
 中国の魏晋南北朝時代(220-589)に天台宗を開いた慧文(550-577)は、この一節を読んで直ちに空、仮、中の三つの真理を悟り、「これら三諦-空、仮、中-は、互いに浸潤しあい、完璧に和合し、統合している。これら三諦は別個のものと認識してはならず、完璧に和合した三層からなる真理と見なさねばならない」と説いた。

○六祖の襲名




 唐の高宗の上元三年、西暦676年、正月十五日、中国広東省広州の法性寺において一人の青年の剃髪式が行われた。翌月二月八日には、西安の智光律師、蘇州の慧静律師、荆州の通応律師、中天竺の耆多羅律師、西域の密多三蔵法師を、それぞれ授戒師、羯磨(karma)師(夏安居終わりの反省会≪羯磨≫の司会を務める上座を羯磨師と言う)、教授師、説戒師、証戒師として招請、盛大な授戒式が執り行われた。こうして達磨が中国に禅宗を伝えて以来、六代目に当たる六祖恵能禅師が誕生した。

○二人の三蔵法師の預言の成就
 これを去ること256年前、魏晋南北朝時代の宋(南朝)の武帝の時(西暦420年)、天竺の求那祓陀羅三蔵法師(394-468)がこの地に戒壇を築いた際、「将来、肉身の菩薩がこの戒壇で具足戒を受けるであろう」と述べ、また174年前、梁の武帝の天監元年(西暦502年)に、天竺の智薬三蔵法師がこの地に菩提樹の苗木を植えた際、「170年後、肉身の菩薩が現れ、この菩提樹の下で説法し、無量の衆生を済度するであろう。この方こそ仏心印法を伝える救世主である」と述べられた。恵能の剃髪受戒は、両三蔵法師の預言の成就であり、寺の境内に建てられた七重の塔には、一千有余年を経た今日も、恵能の髪が収められていると言う。




 恵能は、この時まで広州市で柴売りを生業とする一介の青年(39歳、中年?)に過ぎなかったが、並み居る高僧を押しのけ、突如、中国禅宗六代目の祖師の座に就いた。このため、この剃髪受戒式は、ナザレの大工の子イエスが、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受け(マルコ1:9/マタイ3:13)、ベタニアおけるヨハネの証言を通じてイスラエル宗教界にデビューしたのと同様、中国仏教史に一時代を画する象徴的事件とされる。当時イエスも30代半ばだったようだ。(ルカ3:23)
 ちなみに、ナザレの大工の子イエスの受難は、ダビデとアロン双方の血筋を引く小ヤコブの指導下に、異邦人の教会運動と国内ユダヤ教各派を統合するエルサレム教会を創設するために、大祭司、王族、ローマ総督を含む各方面により周到に計画されたものと見られる。そのことは過ぎ越の祭りの前日、正味1日半の間に大祭司、ローマ総督、国王による取り調べや裁判を全て終え、日暮れ前に処刑と埋葬を完了させたことや、処刑から僅か1ヶ月半後に、大祭司カイアファの屋敷に隣接したエッセネ派の集会所で、原始キリスト教団が発足し、その日だけで異邦人を含む3000人が教団に加わったこと(使徒2:1-41)からも窺える。こうしてエルサレム教会の初代総監(Bishop)には、小ヤコブが就任したが、ローマ教会の初代教皇には、小ヤコブでもパウロでもない、ガリラヤの漁師の子ペテロが列せられた。ちなみにテレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によると、ガリラヤの先住民のイトゥレヤ人はイシマイルの子孫(アラブ民族)と言われ、ハスモン朝時代にユダヤ教に集団改宗させられた。そんなこともあってか、イエスの弟子は、ファリサイ派のみならず洗礼者ヨハネの弟子からまで、その振る舞いを咎められるほど、ユダヤ教の戒律`や規則に疎かったと言う。

○祖師の西来




 景徳伝灯録(初版1004年)によると、南インドの異見王(達磨の甥)の時代に海路中国に赴き、梁の普通8年、西暦527年に、広州に上陸、同年10月1日、梁の武帝(当時64歳)と対面した時、達磨はすでに150歳だった。
 武帝が『仏法を奉じる功徳』を問うと、達磨は、『無功徳』と答え、『仏法の真諦(聖諦第一義)』は何かと言う問いには、あっさり『そんなものはない(廓然無聖)』と言い捨て、さっさと揚子江を渡り魏に赴いた。
 伝承によると、その後、達磨は嵩山少林寺(河南省鄭州市登封)に籠もり、面壁九年、慧可、道育、総持(比丘尼)、道副等に法を伝えた後、160歳余で遷化したとされる。北魏の政変に巻き込まれた(河陰の集団処刑)と言う説や毒殺されたと言う説もある。
 胡皇太后が実の子の孝明帝を毒殺し、元剣を皇帝に擁立すると、爾朱栄将軍はこれを認めず、胡皇太后を打倒し、孝荘帝を即位させた。爾朱栄将軍は胡皇太后とその宮廷官員を洛陽近郊の河陰に集合させ、虐殺した。その数は2000人以上にのぼったと言う。




 ≪歴代法宝記≫等の記録によると、達磨は9年間に6度毒殺を図られた。達磨は、慧可を後継者に指名した後、中国における布教の任が完了したと悟り、6度目の毒殺を試みられた際、従容として世を去ったと言う。この伝承には奇妙な点がある。達磨を嫉妬して毒殺を図ったとされる菩提流支と光統律師(慧光)は、何れも当時の著名な高僧である。菩提流支は北インド出身の大乗瑜伽仏教学者で、経典の翻訳に従事していた。慧光は少林寺の跋陀尊者の下で小乗禅法、律宗、華厳宗等の奥義を極め、多数の弟子を輩出した。それに引き替え達磨は少林寺付属の洞(ほこら)で面壁九年、僅か数人にその法を伝えたに過ぎない。高名な二人が無名な達磨を嫉妬する謂われは希薄で、加えて達磨は毒入りを承知で二人が供する山菜料理を食べていた節が見られる。二人は、山菜料理に含める毒の量を徐々に増やし、達磨はその度に吐き出し、その毒気で岩が変色したと言う。三人はひょっとすると協力してアーユルベーダ(Ayurveda)/ユナニー(Unani)/ホメオパシー(Homoeo:同毒療法)/シッダ(Siddha)等のインドの伝統的医学と漢方医学を結合した新しい治療法の開発に取り組んでいたのかも知れない。
 いずれにしても150歳の老翁がはるばるインドから海路南中国の広州にわたりさらに直線距離で1200キロ以上を旅して中原洛陽郊外の嵩山に赴いたと言う伝承を鵜呑みにすることはできない。最近になって、敦煌の遺跡から達磨の著作と称される≪二入四行論≫と多くの共通点を有する仏典が発見されたことから、今日では達磨は、どうやら海路ではなく陸路中国に赴いたのではないかと言う説が有力視されていると言う。
 主要な中国文献の一つ、洛陽伽藍記は、達磨を西域出身のペルシア人としている。一般に中央アジアを指す西域にインド亜太陸が含まれる可能性も否定できないが、禅宗文献の中で、達磨は、しばしば碧眼の胡僧と称されており、達磨がインド人であったなら、碧眼の天竺僧と呼ばれたはずである。




 一方、インドの伝承によれば、タミールナド州カンチプラム出身のパッラヴァ王朝第三王子の達磨は、浅黒い肌のドラビダ人であったと言う。曇林(506–574)も≪二入四行論≫序文において、達磨を偉大なインド王の第三王子と紹介している。インド・ブバネーシュワルのユトカル大学物理学部および物理研究所のサマール・アッバス博士によると、西暦275~897年に南インドの一部を支配したパッラヴァ王朝は、イランを起源とし、ペルシアのパルティアあるいはパフラヴァの系列に属していたようだ。

○南頓北漸の起源
 恐らく、魏晋南北朝時代に複数の先達により陸路と海路を通じて中国に伝えられた禅宗は、北朝が支配する中原では、≪二入四行論≫が説く『行』を重んじる漸進的な教禅一味の宗風を、南朝が支配する南中国では、頓悟を重んじる不立文字・教外別伝の宗風をそれぞれ開花させたが、後世になって、中国禅宗史の第一ページを飾るスペクタクルとして、南朝きっての仏教庇護者梁の武帝と達磨の対決が、アレンジされたものと見られる。
 異民族の王朝が興亡した中原では、そ時々の政権によりしばしば廃仏毀釈政策が打ち出されたこともあって、始祖達磨、二祖慧可、三祖僧璨、四祖道信(580-651)の時代までは、さしたる発展は見られなかったが、唐王朝により中国全土が統一され、取り分け高宗の皇后武則天が実権を掌握した頃には、五祖弘忍(601-675)の下で中原においても禅宗が急成長を遂げた。

○武則天の仏教振興策




 則天武后は、宮廷における劣勢を挽回する狙いから、身分に関わりなく、と言うより、むしろ身分の低い優秀な人材を登用すると同時に、老子の末裔を自負する李氏宮廷における『道先仏後』の優先順位を『仏先道後』に改め、仏教の振興に努めた。
 南頓北漸二派を統合する中国禅宗の第六祖に広州市の一介の柴売り青年が就任した背後にも、あるいは則天武后の意向が働いていたのかも知れない。恵能の兄弟子で、やはり五祖弘忍の法を嗣ぎ北宗禅の開祖として則天武后の帰依を受けた玉泉神秀(606?-706)は、「弘忍の正嫡は恵能である」とし、恵能の講義を聴くよう中宗(高宗と武則天の子)に上奏したが、恵能は神秀の再三の説得にも関わらず病を理由に上京しなかったとされる。ちなみに、ちょうどこの頃、西域康国(ソグディアナ)人の法蔵(643–712)は勅命により出家した後、華厳宗の第三祖に就任、武后の宮廷で華厳哲学を講義している。
 もう一つ補足すれば、中国禅宗の祖は、六祖までで、七祖や八祖は、存在しない。六祖以後、中国禅宗は、南頓北漸二派のみならず、五家七宗が並び立ち、爆発的成長を遂げた。このため最早、絶大な権勢を誇る唐皇帝の力をもってしても第七祖を襲名させることは不可能になったものと見られる。

○処女降誕




 ちなみに、五祖弘忍の俗姓は周氏とされるが、これは母の姓で、父親は不詳。伝説によれば、母の体内に宿った破頭山の仙人の生まれ変わりと言う。
 四祖道信が湖北省黄梅県の破頭山に住み着くと、同山の主の仙人も弟子入りを願い出た。これに対して道信は「齢百歳を超えた仙人を弟子にする訳には行かないが、生まれ変わって弟子入りしたいと言うなら入門を許そう」と答えた。がっかりした仙人が山を下って里に出ると一人の娘が小川で洗濯をしていた。そこで仙人は、「生まれ変わって出直せば、弟子入りを許す」と言う道信の言葉を思い出し、早速その娘に「宿を借りたい」と尋ねた。娘が「ぼろ家で宜しければどうぞ」と答えると、仙人はチャッカリ娘の腹に潜り込んでしまった。娘の腹が大きくなると、家族は不埒なことをしでかした娘を家から追い出した。




娘は月満ちて男の子を産んだが、人々は母親と一緒に乞食をして回るこの子を無姓児(むしょうに)と呼んだ。黄梅県の街角で七歳になったこの無姓児と出会った道信が、名を尋ねると「俺の名は仏性だ」と答えた。道信はこの子に惚れ込み、破頭山の仙人の生まれ変わりとはつゆ知らず母親からもらい受け、黄梅山東山寺で出家させた。この無姓児こそ後の五祖弘忍と言う。
 この説話はイエスの処女降誕を彷彿とさせるが、福音書作家マルコがマリア・サロメ(最後の晩餐が行われた家の家主)との間に生まれたイエスの実子の可能性が疑われるように、弘忍も道信の実子だったのではなかろうか。<以下次号>





○『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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