カエサル・アウグストゥスがローマ帝国全土の国勢調査を命じたことから、ヨセフはガリラヤ南部のナザレから、9ヶ月の身重のいいなずけマリアをつれて南部のベツレヘム・エフラタに赴いた。国勢調査のため、誰もが出身地に戻る必要があり、ダビデの家系に属するヨセフはベツレヘムのエフラタに帰らねばならなかった(ルカ2:1-5)。
○不義の子
ベツレヘムは、富裕な人々が住んだ城塞都市だった。こうした人々には、ナオミ、ボアズ、エッサイ、レハブアム等の旧約聖書の登場人物が含まれる。対照的にエフラタは、ベツレヘムの市民や寺院のために食物や祭儀に欠かせない羊や山羊を供給する郊外の下層農業コミュニティーだった。ダビデの父エッサイや兄弟はベツレヘム市内に住んでいたが、ダビデは郊外のエフラタで生まれ、そこで成長した。
こうしてイエスもベツレヘムのエフラタで生まれたが(ルカ2:6)、国勢調査の登記を終えたヨセフは、なぜかガリラヤに戻らず、マリアと乳飲み子をつれて、エジプトに渡った(マタイ2:14)。そのころナザレではマリアの妊娠を巡る醜聞が、つまり彼女を妊娠させたのはヨセフではなく、別人ではないかと言う噂が生じていた。しかし、マタイ福音書は、その理由として、当時ユダヤ地方を支配していたヘロデ大王が、救世主が誕生すると言う預言を耳にし、二歳以下の男児を全て殺害するよう命じたと言う伝説に言及している(マタイ2:16)。
ところでダビデの父親エッサイには、ニッツベット・バット・アデールと言う正妻がいたにも関わらず、ダビデの母親の名は記録にない。詩編(Psalm 69)はダビデが不義の子であったことを暗示しているが、恐らくエッサイは城外に妾宅を設けており、ダビデはその妾宅で生まれ、実母の下で育ったものと見られる。もしそうならダビデがユダ族の血をひくことだけは間違いなさそうだ。それに反して、イエスの父親がヨセフでないなら、イエスがダビデの血筋と言う根拠は失われる。
○エジプト行の背景
それにしても、ヨセフはなぜエジプトを逃避地に選んだのだろうか。テレアビブ大学の歴史学者シュロモー・サンド教授によると、西暦1世紀のユダヤ国内の人口が80万人前後であったのに対して、全世界のユダヤ人口は400万人にのぼり、アレキサンドリアやクレネ等、地中海に面した北アフリカの諸都市には、それ以前からユダヤ教徒の一大コミュニティーが形成され、異邦人ユダヤ教徒が激増、正式に会堂(シナゴーグ)に参加できない未割礼の異邦人ユダヤ教徒のための教会(ecclesias)が地中海沿岸各地に誕生していた。アレキサンドリアはこうした異邦人ユダヤ教徒のハブの感を呈していた。
ベタニアにおける洗礼者ヨハネの証言によりエルサレム宗教界へのデビューを果した時(ヨハネ1:28)、イエスは約三十歳だった(ルカ3:23)とされるが、イエスがそれまでどこで何をしていたかは記されていない。
数年エジプトに滞在した後、ガリラヤに戻ったヨセフは、正式にマリアと結婚したが、エッサイがダビデを成長するまでベツレヘム城外にとどめたように、ヨセフはイエスをエジプトに残したのではなかろうか。こうして成長したイエスは、異邦人教会運動の先頭に立ち、単にイスラエル復興のためではなく、全人類の救世主としてエルサレムで十字架にかかる決意をしたのかも知れない。とすれば、ヨルダン川に突然たった一人で現れ、ヨハネから水の洗礼を受ける(マルコ1:9/マタイ3:13/ルカ3:21)まで、イエスがどこで何をしていたのか、また、イエスが十字架に処せられた日、はるばる北アフリカから息子のアレクサンドロとルフォスを連れてエルサレムを訪れた
クレネ人のシモンがイエスに代わってゴルゴダの丘まで十字架を担いだ(マルコ15:21/マタイ27:32/ルカ23:26)と言う福音書の記述も頷ける。
○洗礼者ヨハネとシモン教団
ヨハネ福音書によれば、イエスは、洗礼者ヨハネの複数の弟子を借り受け、布教活動を開始したが、ヨハネの死後、その他の弟子もイエスの活動に合流した(ヨハネ10:40-42)。
ローマ教会の第二代監督クレメンスの名で書かれた一連の文書群、いわゆるクレメンス文学によると、洗礼者ヨハネには、指導的な30人の弟子がいた。そしてヨハネが第一に、そして最も尊重したのはシモンだった。洗礼者ヨハネの死に伴い、シモンがエジプトへ下ると、
ドシセオスが、同グループの指導者の地位を引き継いだ。シモンが帰郷した後、ドシセオスは、シモンに「あなたが『立てる一人者』の魔術を体得したのなら言ってくれ、私はあなたを崇めるだろう」と言った。シモンがその通りだと答えた時、ドシセオスは、自分が『立てる一人者』でないことを自覚し、跪いて、シモンを礼拝するとともに、グループ首座の地位をシモンに譲り、他の三十人のメンバーにもシモンを崇めるよう求め、自分は次席に退いた。これをきっかけにシモン主義教団が発足したと言う。
シモンはサマリア人で、ジッタの出身だった。アレキサンドリアで、ギリシア文学を学び、加えて魔術を習得、大望を抱くようになった彼は、この世界を創造した神さえ超える、至高の権能者と見なされることを望んだ。そして彼はあるとき、自分が救世主であることを暗示し、自分自身を『立てる一人者』と呼んだ。彼の自分自身に対するこの呼称は、彼が永遠に立ち続け、彼が肉体的に消滅することはないことを意味した。彼は、この世を創造した神は至高ではなく、死人が蘇ることもないと信じていた。彼は、エルサレムを否定し、代わりにゲリジム山を紹介した。彼は、キリスト教徒の救世の地に自身を顕現させ、律法を彼一流の概念に基づいて寓話化した。彼は、来たるべき正義と審判を説いた。
○シモン主義とパウロ神学
発足当初のエルサレム教会に合流を図り、パウロ同様使徒の地位を要求したが、ペテロからこれを拒絶された(使徒8:9-24)シモン・マグスは、その後、ローマに上り、ネロ帝の宗教顧問を務めたとされる。
シモンが要求した使徒の地位とは、どうやら入信者に聖霊のバプテスマを施す儀式を行う権能を指しているようだ。シモン・マグスは、ステファノ事件後にエルサレム城外に退去させられたヘレニスト・リーダーの一人、ピリポから水の洗礼を受け、エルサレム教会に加わったが、聖霊のバプテスマを施す権能は当時十二使徒に限定されていた。その後、十二使徒以外でこの権能を認められたのは、使徒パウロとバルナバのみのようだ。
殉教者ユスティノス(100? - 162?)はその著作≪弁明≫に「彼はクラウディウス帝の治世に魔術を用いて様々な奇瑞を現したため、神と称され、二つの橋が交差するティベル川の島には『神聖シモンに捧げる』と刻まれた肖像が建てられた」と記している。(弁明27章)
サラミスの司教エピファニオスはその著≪全異端反駁書(Panarion)≫の複数の箇所で、シモンに一人称で語らせ、「なぜなら人間は彼(至高者)の恩寵によって救われたのであって、正しい行いによって救われたのではなかったのだから。なぜなら働きは天性のものではなく、慣習によるもので、人々を奴隷にするためにこの世を創造した天使たちの規則に基づいているからである」と、なにやらパウロ神学の『信仰義認』の教義を彷彿とさせることを述べている。
エピファニオスによると、シモン・マグスは、律法も預言者も神(霊)から出たものではない、したがって旧約聖書を信じることは(霊的)死を意味すると説いたとされる。イエスも、「神は霊である。だから礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝せねばならない(ヨハネ4:24)」と述べており、パウロは、「霊的でない者は、神霊から真理を受容することはできない。彼等にはそれは、全く馬鹿げたことに聞こえ、彼等はそれを理解することができない。なぜなら霊的な者だけが霊を理解できるからである(コリント一2:14)」と説いている。
テュービンゲン学派の創始者、フェルディナント・クリスティアン・バウア(1792–1860)は、≪クレメンス文学≫の反パウロ主義に注目し、シモン・マグスとペテロの論争の中で、シモン・マグスの一部の主張(生前の主ではなく、幻の中での主との対面等)は、実際にはパウロの主張を想定しているとし、ペテロによるシモンの論破はパウロの主張の論破を意図したものであると示唆している。
ペテロとシモンの間の敵意は明白である。シモンを凌駕する祈祷の力を通じたペテロの権威を強調するために、シモンの魔術はペテロの力と併記され、≪第17訓辞(the 17th Homily)≫においてパウロとシモン・マグスとの同一性が具現されている。直に生前のイエスを見、生前のイエスと会話したイエスの弟子たち以上にイエスの心を熟知していると主張するために、シモンは用いられている。彼のこの奇妙な主張の根拠は、『幻は醒めた実像に勝っている。なぜなら神性は人間性に勝るからである』と言う点に依拠している。ペテロはこうした主張に大いに反駁しているが、中でも注目すべき点は以下の一節である。
○ペテロのパウロ神学批判
しかし、誰にしろ幻により教えを習得できるだろうか。もしあななたが「それは可能だ」と言うなら、師が常在し、覚醒した人々と年中語り合ったのはなぜだろう。譬えあなたに彼(主)が現れたにしろ、我々はどうしてあなたを信じることができるだろう。あなたの感情が彼の教えに反しているのに、彼(主)はどうしてあなたに現れたのだろう。しかしもしあなたにただ一度でも主が現れ、教えられたのであれば、そしてあなたが使徒になられたのなら、御言葉の説教、御心の解釈、使徒たちに対する愛は、主と直接対話した私を敵視するものではあり得ない。なぜならそれは、教会の岩盤、礎に反対することであり、あなたは私に反対することによりあなた自身に反対しているからである。もしあなたが悪魔でなかったなら、あなたは私を中傷せず、私を通じてなされた教えを冒涜することはなかっただろう。なぜなら、私は主から賜った内なる自分(聖霊)に聞き従うので、私が語る時、私があたかも断罪されたもの、堕落したもののように思われことはないのだから。あるいは、仮にあなたが私を断罪するなら、あなたは、私にキリストを顕現された神を非難し、啓示により私を祝福した神を罵っているのである。しかし仮にあなたが本当に真理に依拠して働くことを望むなら、我々が彼から学んだように、先ず我々に学びなさい。そしてあなたが真理の弟子になるなら、我々の同行者になることができる。
最近(1995)、ベルリンのハーマン・デターリング牧師は、≪クレメンス文学≫の隠された反パウロ主義には、史的根拠があり、≪使徒行伝≫第8章の魔術師シモンとペテロの対決自体、ペテロとパウロの対立をベースにしたものと述べている。デターリング牧師のこうした見解は、学者ら全般の支持を得ていないが、ロバート・マクネイア・プライスはその著≪驚くべき偉大な使徒:歴史上のパウロを探る(2012)≫においてこの点を大いに論じていると言う。(英語版Wikiから抜粋)
○四恩三有に報いず
唐王朝大中年間(847-859)の末期、洞山良价禅師は新豊山に住し、学僧を集め教化した。その後、師の教えは豫章郡高安県洞山(現在の江西省宜豊県北部)一帯に広まった。
雲岩和尚の命日の法要が営まれた折り、一人の僧が、「師は、先師雲岩和尚からどのような教示を受けられましたか」と尋ねた。
すると良价禅師は、「確かに先師の下におったが、何も教示は受けなかったよ」と答えた。
その僧は「何の教示も受けなかったのなら、どうして先師の法要を営むのですか」と聞いた。
師は「そうは言っても、命日に法要も営まないのは、失礼じゃないか」と答えた。
するとその僧は「師は最初に南泉和尚に参じて有名になられたのに、どうして雲岩和尚の法要を営むのですか」と質した。
師は、「わしは、先師の徳や教えをありがたがって法要を営むわけではない。何も教えてくれなかったから、法要を営んでいるんだ」と答えた。
そこで、その僧は「師が、先師の法要を営むのは、先師を肯定するからですか、肯定しないからですか」と尋ねた。
すると師は、「まあ半々だ」と答えた。
これを聞いた僧は、「なぜすべて肯定しないのですか」とさらに突っ込んだ。
師は「全て肯定するなどと言うのは、先師に対して失礼じゃないか」と答えた。
そこでその僧は「どうしたら和尚の本来の師にお目にかかれますか」と質した。
師は「年季が同レベルの者同士には隔てがない。そんなものだ」と答えた。
その僧が依然としていぶかしそうに、さらに質問しようとすると、師は「これまでの問答に捕らわれずに、さらに問うて見よ」と促した。
すると、その僧は黙ってしまった。そこで雲居と言う別の僧が替わって、「そうだとすれば、私には和尚の本来の師にお目にかかることはできますまい」と言った。
そこで師は「四恩(天地/君/両親)三有(有識/有縁/有情)に報いない者は、他におらんか。この意が分からぬ者は、この世の初めから終わりに至るまで煩悩を解脱することなどできないぞ。一心一心が物(対象)に捕らわれず、一歩一歩が足跡をとどめない、常にそう言う境地にとどまれれば、まずまずだ」と激励した。(景徳伝灯録第15巻)
<以下次号>
○『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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