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2016-06-06 ArtNo.45776
◆書評:聖霊のバプテスマ(聖餐)
○パウロ、2回目の宣教旅行に出発




 第1回使徒会議で、異邦人に布教する使徒の身分を認められたパウロとバルナバは、シリア州のアンティオキア教会に戻ると、使徒会議の決議を異邦人信徒に伝えるため、直ちに新たな宣教旅行に乗り出した。
パウロは、エルサレム教会から派遣されたシラスを伴い陸路小アジアに旅立ち、バルナバは、パウロが同伴するのを拒絶したマルコを伴い海路キプロス島に向かった。

○3度び進路変更
 バルナバにより入念に準備された予定に従って行われた1回目の宣教旅行と異なり、2回目の旅行では、パウロの意思とは異なる進路変更が3回なされたと≪使徒行伝≫は伝えている。
 パウロ一行は、予定とおりシリア州、キリキア州、ルカオニア州を経て、ビシデア州のアンティオキアに到着したが、聖霊からアジア州で布教することを禁じられたため、それ以上西に進むことを諦め、北に進路を変えフリギア州とガラテア州を通り、ミシア州とビチニア州の境まで来た。ここでまたイエスの霊がビチニア州に入るのを禁じたため、再び西に進路を改め、アナトリア半島西端の港、ミシア州のトロアスに着いた。その夜、一人のマケドニア人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください(使徒16:9)」と懇願する幻を見たパウロは、直ちにマケドニアに向けて出帆した。≪使徒行伝≫は、ここで「私たちは直ちにマケドニアに向けて出帆した」と述べ、さらにその直ぐ後の16章11-12節でも、「わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。」と一人称の複数型を用いていることから、幻の男が≪使徒行伝≫の著者ルカその人であったことが分かる。

○進路変更を強いた聖霊の正体?




 何故、パウロは予定通りのコースを辿ることができなかったのだろうか。理由の一つとしては、これまでパウロの活動をずっとサポートして来たバルナバが随行しなかったことが考えられる。バルナバは、行き先ごとに、誰の家に泊り、何処で説教し、誰と面会するかといったことを長期にわたり入念に準備し、その計画通り行動するようパウロに求めたものと見られる。取り分け1回目の宣教旅行の中心だったキプロス島は彼の故郷であり、バルナバ自身の強固な人脈やネットワークが既に構築されていたものと見られる。
 しかし今回、パウロとバルナバは、出発時点で激論し、別々のコースを辿ることになった。とは言え、バルナバと別のコースをとることは、あるいはパウロの当初からの予定の行動だったのかも知れない。なぜならパウロとバルナバの激論には、マルコを同伴するか否か以外にも伏線が存在した。第1回使徒会議後、ペテロがアンティオキア教会を訪れた時、パウロは、割礼者に遠慮して非割礼者に近づくことを避けるペテロの姑息な態度を面罵したが、実際のところ小ヤコブの下からある人々が来て後、バルナバもペテロと同様な態度をとるように成っていたと言う(ガラ2:11-13)。イエスや小ヤコブ同様、モーセの律法の番人を務める祭司の家柄レビ族出身のバルナバやマルコは、この点に関してガリラヤ湖の漁師ペテロ以上に微妙な立場に立たされていた。つまりパウロは、割礼問題が中心テーマに成る今回の宣教旅行には、マルコのみならず、バルナバさえ同伴することを望まなかったのかも知れない。いずれにしてもパウロには、独自のプランを準備する時間も能力も不足していたものと見られる。

○パウロの宣教活動の後援者
 そこで、パウロの宣教活動の後援者を、資金と政治的庇護の両面から推測してみると、資金面では、1.『大祭司ハナン(Hanan)一族』、2.『エルサレム教会』、3.『シリアのアンティオキア教会』、4.『キプロス島のバルナバ支援者』、5.『キプロス総督セルギオ・パウルス』、6.『ビシデア州アンティオキアの元老院議員パウルス一族』、7.『マケドニア州のルカ支援者』、8.『キリキア州タルソのサウル(パウロ旧姓)一族とパウロ自身の人脈』等、また政治的庇護の面では、1.『大祭司ハナン一族』、2.『キプロス総督セルギオ・パウルス』、3.『ビシデア州アンティオキアの元老院議員パウルス一族』、4.『ローマ/シリア/イスラエル国内のヘロデ王族の一部』、5.『カエサリアのローマ総督府』等が考えられる。これらのソースは、時間の経過とともに変化し、時には相互に対立関係にあった。

○ハナン家




 ヘロデ大王の死後、カエサリアのローマ総督府と良好な関係を維持したハナン家は、サンヘドリンの議員達をとりまとめ、イエスの処刑やその後の大祭司カイアファ邸隣接地におけるエルサレム教会の創設、さらにはステファノ殉教後の、ヘレニスト信者のエルサレム城外への退去に重要な役割を演じたものと見られる。ヘレニスト信者とヘブライスト信者の棲み分け計画の陣頭指揮をとったパウロは、その後、直ちに大祭司の勅許状を得て、シリアのダマスカスにわたり、ヘレニスト信者の活動に参画している。
 カリグラ帝とクラディウス帝の知遇を得たヘロデ・アグリッパ1世が、ローマ総督府に替わってイスラエル全土の統治を回復した時代には、その影響力は低下したものと見られるが、ハナン家は主要な大祭司の家柄として、パウロの生涯を通じてその影響力を維持した。

○パウルス一族




 しかしパウロが第1回宣教旅行の過程でキプロス島のローマ総督と面会、その名をサウロからパウロに改めて以後、小アジア、さらにはギリシアやローマにおいてさえ、キプロス島のセルギオ・パウルス総督とその息子でピシディア州アンティオキア在住の元老院議員ルキウス・セルギウス・パウルスの一族が、パウロの宣教活動に対して資金と政治的庇護の両面で重要な役割を演じたであろうことは想像に難くない。パウロは、ローマ市民権もパウルス一族を通じて手に入れたのではなかろうか。

○テモテに割礼




 今回、パウロは、ガラテヤ州ルステラで、父がギリシア人、母がユダヤ人のテモテと言う信者を宣教旅行の随員に追加している。使徒行伝は「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた(使徒16:3)」と述べている。どうやらパウロの当初の計画では、アジア州か、ビチニア州のユダヤ人の会堂を巡り、宣教活動をするつもりだったようだ。
 それにしても、パウロは≪ガラテヤ人への手紙≫において「もし割礼を受けようとするなら、あなたがたは誰であろうと、キリストとは縁もゆかりない者とされ、恵みも失います(ガラ5:2-4)」と警告、また≪フィリピ人への手紙≫では、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷に過ぎない割礼をもつ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、私たちこそ真の割礼を受けたものです。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。(フィリピ3:2-3)」と述べている。

○バルナバの深謀遠慮?
 パウロが自分の信条に反して、テモテに割礼までさせ、準備したアジア州とビチニア州における宣教活動を中止したのは、よほどのことがあったに違いない。キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々やキリキア州とアジア州出身の人々などがエルサレム教会に圧力をかけ、パウロにこれらの州での布教を見合わせるよう指示させたのかも知れない。彼らは、ステファノの殉教に伴うヘレニスト信者のエルサレム城外退去後も城内に留まっていた。あるいは、ピシデア州アンティオキア在住の元老院議員ルキウス・セルギウス・パウルスの一族が、パウロの宣教活動により、これらの州のユダヤ人社会との間に紛争が生じるのは得策ではないと考え、ギリシア地域での宣教を優先するよう指示したのかも知れない。なぜなら、聖霊から両州での布教を禁じられた後、パウロ一行は、アナトリア半島西端の港町トロアスに直行している。また使徒行伝の著者ルカが同地でパウロの一行に偶然合流したなどと言うことはあり得ないため、あるいは、パウロと別行動をとったバルナバが、先手を打って、ルキウス・セルギウス・パウルス一族とルカ双方に連絡し、パウロに旅程の変更を強いたのかも知れない。

○行く先々でユダヤ人コミュニティーと紛争
 案の定、パウロの行く先々で現地のユダヤ人コミュニティーとの間に紛争が生じ、フィリピでは、パウロとシラスは投獄され、鞭打ちの刑に処せれれたが、パウロがローマの市民権を有することが明らかになると、役人達はパウロに謝罪した。テッサロニケでは、パウロを匿った廉でヤソンと言うものが投獄されたが、保釈金を支払って釈放された。コリントでもユダヤ人達がパウロを法廷に突き出したが、地方総督ガイオは取り合わなかった。これらの事例から、緊急の折には、ピシデア州アンティオキア在住の元老院議員ルキウス・セルギウス・パウルスが、手を回し、パウロ一行を庇護したことが窺える。

○ルカが枯渇した資金を補充




 また、ペレアで暴動が起きた際、シラスとテモテを残して脱出したパウロは、コリントに着くと、ポントス州出身のテント職人でアキラというユダヤ人とその妻プリスキラの家に寄宿、平日はテント作りを手伝い、安息日に会堂で説教していた。しかしシラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは説教に専念したと言う。このことからシラスとテモテはマケドニアでルカの人脈を通じて資金を調達、軍資金が枯渇したパウロに届けたことが窺える。

○ナジル人の誓願
 1年半にわたりコリントにとどまり、説教した後、アキラとプリスキラ夫婦を伴ってシリアのアンテイオキア教会に戻る方針を決めたパウロはコリントの港ケンクレアイでナジル人の誓願の作法に従って剃髪した。(使徒18:18)




 ナジル人の誓願とは、神に誓いを立て自らを聖別することで、『別にする』あるいは『分離する』を意味するナーザルというヘブル語に由来する。その作法は旧約民数記第6章1-21節に規定されている。それによると、この作法に基づいて神に誓いを立てる者は、誓願の期間が満ちるまで頭にカミソリをあてること、葡萄酒やその他の酒類およびブドウを食べること、死体に近づくことを禁じられる。
 ≪使徒行伝≫はパウロが如何なる誓いを立てたのか、何も説明していないが、剃髪したと言うことは、満願したことを意味する。恐らく第2回宣教旅行が完了したのを機に剃髪したのだろう。とすれば、コリントに滞在した1年半を含め、2年近くにわたり、パウロは、髪を切らず、酒類はもとより、ブドウの実を食せず、死体にも近づかなかったことになる。
 ケンクレアイを出帆した、パウロ一行は、エフェソス、カエサリア、エルサレムを経てシリアのアンティオキアに戻ったが、パウロは、この後、小ヤコブの提案に基づき、もう一度、ナジル人の誓願を行うことになる。

○聖餐の由来




 イエスは最後の晩餐の席で、パンを取り、祝福してからそれを裂き、弟子達に与えてこう言った。「取って、食べなさい。これはわたしの体だ」。杯を取り、感謝をささげてから、彼らに与えた。彼らは皆その杯から飲んだ。彼は彼らに言った,「これは新しい契約のためのわたしの血だ。それは多くの人のために注ぎ出されるのだ。本当にはっきりとあなた方に告げる。神の王国においてそれを新たに飲むその日まで、わたしはもはやブドウの木の産物を飲むことはない」。(マタイ25:26-29) (マルコ14:22-25) (ルカ22:14-19)
 マタイ福音書とマルコ福音書そしてルカ福音書はいずれも以上の最後の晩餐の場景を伝えており、古来この最後の晩餐は、ナジル人の誓願の作法に則ってなされたとされ、カトリック教会等で行われる聖餐(聖体拝受)の原型になった。
 しかし、ノース・カロライナ大学宗教学研究所の所長ジェイムズ・D・テイバー教授によると、この聖餐の作法は、血を飲むことも、血を含んだ肉を食べることも堅く禁じられたユダヤ人の習慣と全く相容れないもので、またこのイエスの言葉が最初に出現するのは、四福音書が編纂される以前の西暦54年頃に書かれたパウロの≪コリント人への手紙一≫である。パウロは同書簡の中で(コリント一11:23-27)、自分はこのことをイエス・キリストから直に伝えられたと述べている。つまりテイバー教授は、聖餐の原型は、パウロの幻の中に現れたイエスの言葉に由来すると見ている。使徒行伝にもパウロが弟子達と『パンを割いて食べた』という記事が見られることから(使徒20:7/11)、パウロは伝道旅行中も『聖餐』の儀式を通じて現地の信徒との契りを固めていたことが窺える。
 ヨハネ福音書には、「私の肉を食らい、血をすするものだけが、永遠の命を得ることができる」と言うイエスの説教を聞いて、多くの弟子が「これはひどい。とても聞いてはいられない」とつぶやき、イエスの下を去ったと言う記述が見られる。弟子までも動揺しているのを見てとったイエスは「私が語る言葉はスピリットであり、命である。スピリットこそ命であり、(魂の抜け出た)肉は何の役にも立たない」と説き聞かせた(ヨハネ伝6:60-63)。
 裏返して言えばスピリットさえくみ取るなら、何を食べようが、何を飲もうが、それがすなわちイエスの肉であり、イエスの血である。禅的表現を借りるなら鼻の頭にこびりついた糞も祖師西来意である。最後の晩餐におけるイエスの垂示は、聖餐の原型のみならず、ユダヤ教を批判的に継承したグノーティシズムの精髄であり、中国や日本で開花した禅文化の淵源と言える。このことに気づいたパウロもグノーシス主義のパン種を備えていたようだ。彼はそのパン種からパウロ神学を構築したが、自らの教理以外のグノーシス主義を受け入れることは拒絶した。

○乾屎橛




 唐末五代十国の時代に雪峰義存(せっぽう・ぎぞん822-908)禅師が福建省雪峯山に設けた雪峰寺で『夏安居』が催された際、講師を務めた雪峰禅師の高弟の一人、翠巌令参(すいがん・れいさん)和尚が、夏末に「今日まで、指導役を務め、諸君に説法してきたが、どうだ私の眉毛はまだついているか」と尋ねた。
 たとえ始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、覚知した全き真理であっても、この地上においてその証し(ヨハネ3:33)をすれば、口から出た言葉は最早絶対ではあり得ない。法華経には、仏法を誹謗したり、曲解したものの眉毛は落ちると記されており、翠巌和尚も忸怩たる思いがあったのかも知れない。
 雪峰禅師には、翠巌和尚の他に、保福従展(ほふく・じゅうてん860?-928)、長慶慧稜(ちょうけい・えりょう854-932)、雲門文偃(うんもん・ぶんえん864-949)等の高弟がひしめいていた。翠巌和尚の心の内を見抜いた保福和尚は、「ビクビクするな。大泥棒に成りきれ」と励まし、長慶和尚は、「安心しろ、まだ眉毛はついている。明日は明日だ」と慰めたが、雲門和尚は「地獄と極楽の境目だ。さあ通れ」と一喝した。(碧巌録第八則)
 この雲門和尚はその後、広東省韶州の雲門山に住し、臨済宗に並ぶ一大宗派雲門宗の始祖になったが、ある時、一人の学僧が、単刀直入に、「仏とは何ですか」と尋ねと、雲門禅師は、「鼻の頭の糞が見えんか。オーラが漂っているぞ。」と答えた。(無門関二十一則)
 昭和初期に活動した澤木興道と言う曹洞宗の師家は、回光返照を忘れて公案をひねくり回すのは、「鼻の頭に糞をつけて屁元はどこだと探し回るようなもの」と、学人を激励したと言う。





○『聖霊のバプテスマ』とは一体何か
 ヨハネ福音書の弁証法に従うなら、
【テーゼ】 『人は、人の子の証しを受け入れ、聖霊のバプテスマを受けることにより永遠の命を得られる(ヨハネ5:24)』。
【アンチ・テーゼ】 しかし、『地上の人間は、決して天から来たものの証しを理解できない(ヨハネ3:32)』。
それでは、地上の人間はどうして永遠の命を得られるのか。
【ジン・テーゼ】 『地上の人間は始めに神と共にあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを自ら覚知すればよい(ヨハネ3:33)』。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
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【参照】

○《碧巌録》第八則:翠巖、夏末に衆に示す
 擧す。翠巖、夏末に衆に示して云く、一夏以來、兄弟の爲めに説話す。看よ、翠巖が眉毛在りや。
 保云く、賊を作す人心虚なり。
 長慶云く、生ぜり。
 雲門云く、關。

○《無門関》二十一則:雲門乾屎橛
 雲門因みに僧問う、「如何なるか是れ佛。」
 門云く、「乾屎橛。」

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