【書評】過ぎ越しの祭りの日に、神殿の商人を追い払ったイエスの所行を目撃した少なからぬ人々が、これを『印し』と見、『御名』を信じた(ヨハネ2:23)。
○聖霊のバプテスマの極意
これらの人々は、決して肉身のイエスを信じたのではない。肉を止揚した御名、すなわち真理の御霊を信じたのである。御名を信じるものは、御名によって、直接神に求め、全き喜びを手にすることができる(ヨハネ16:23-26)。人は皆、天地が開闢する以前から真理の御霊を具えおり(ヨハネ15:27)、イエスは、人から証しを受けるまでもなく、そのことを知っていた。したがってご自身、すなわち真理の御霊を、これらの者に委ねる必要がなかった。(ヨハネ2:24-25)
○形像=御名
グノーシスの聖典『ピリポ福音書』は「真理は裸のままで地上には来なかった。そうではなくて、形(typos)と像(eikon)の中に来た。この世はそれを他の仕方では受け入れることができない(ピリポ福音書67)」と述べている。つまり人は、形と像、御名(禅家のいわゆる自己本来の面目)を通じて初めて真理を認識できるのである。
○汝の名は慧超
中国の五代十国の時代に禅宗五家の一つ法眼宗(ほうげんしゅう)を開いた法眼清涼文益(ほうげん・せいりょう・ぶんえき885-958)禅師に慧超(えちょう)と言う学僧が、単刀直入に、「仏とは何か」と尋ねた。すると、法眼禅師は「お前は慧超だ」と答えた。
○声前の一句千聖不伝
北宋時代の禅僧、雪竇重顕(せっちょう・じゅうけん:980-1052)和尚は、この問答に、「声前の一句千聖不伝」とコメントしている。仏が菩提樹の下で悟った『天上天下唯我独尊、草木国土悉皆成仏』の境地、換言すれば、イエスが伝えようとした聖霊は、言葉では表すことができない。したがって如何なる聖人も未だかつて伝えたことがなく、未だかつて聖霊のバプテスマを受けたものもいない。
しかし、人は天地開闢以前から誰でも真理の御霊を具えている(ヨハネ15:27)。仏とは何かを知りたいなら、本来の自己に立ち返り、声が発せられる前の一句を自分で悟ればよい。
ヨハネ福音書の言葉を借りれば、聖霊のバプテスマを受けたいなら、初めに神とともにあった言葉(ヨハネ1:1)に立ち返り、神が全き真理であることを証し(ヨハネ3:33)さえすればよい。
文益禅師は「お前は慧超だ」と答えることにより、慧超自身の内に秘められた『真の自己(声前の一句)』を突きき付けたのである。
【参照】
○碧巌録 第7則 慧超問仏
僧、法眼に問う、「慧超、和尚に咨(もう)す。如何なるかこれ仏?」
法眼云く、「汝はこれ慧超」。
○法眼清涼文益禅師
雪竇山資聖寺(浙江省奉化市渓口鎮西北)
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