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2014-04-25 ArtNo.44984
◆直指人心、見性成仏
【書評】水の洗礼を施すために私をこの世に使わした方が、『天から御霊が下ってある人にとどまるのを見たなら、その人こそ聖霊のバプテスマを授ける者である』と言われた。(ヨハネ1:33)
 洗礼者ヨハネは、エルサレムから派遣された祭司やレビ人に対して、「あなた方の中に立っているこの人こそ聖霊のバプテスマを施される方であり、水の洗礼を施す自分はこの方の靴紐を解く値打ちもない」(ヨハネ1:26-27)と語った。
○ベタニアにおけるヨハネの証し
洗礼者ヨハネは、ベタニアで以上の証しを行った。ベタニアはエルサレムの中心街、したがって大祭司カイアファの屋敷や最後の晩餐が行われたエッセネ派(洗礼者ヨハネが属していたと見られる原理主義グループ)の集会所(マルコの母親の家)から数キロ、歩いて1時間たらずの距離に位置する。イエスは十字架に処せられる前の1ヶ月ほど、ヨハネのかつての洗礼活動の拠点(おそらくアイノン)とこの地に住むマルタ、マリア姉妹の家を往復し、計画の最後の仕上げを行い、ラザロを墓から蘇らせた。また棕櫚の行進の起点にもなった(ヨハネ12:13)。
しかし、ベタニアからヨルダン川までは直線で24~25キロも離れており、ヨハネがここで洗礼を施していたとは考え難い。またヨハネの同証しの直後にイエスの弟子になったペテロ、アンデレ、ピリポ、ナタナエル等もベタニアに集合していたようだ。ヨハネがその後洗礼活動の拠点にしたとされるサリム近郊アイノン(ヨハネ3:23)までは直線で約60キロ、イエスが婚礼の席で水を葡萄酒に変えたとされるカナまでは同123キロ、ペテロ、アンデレ、ピリポ等の故郷ベッサイダまでは同125キロも離れている。
 ヨハネ福音書の記述(ヨハネ1:40)から見て、ペテロとアンデレは洗礼者ヨハネの弟子であった可能性が大きいが、ピリポやナタナエルはそうではなさそうだ。使徒行伝の記述(使徒8:13)やピリポ福音書がグノーシス経典に数えられることからピリポはシモン・マグスらに率いられるグノーシス派と関係を保持していたものと見られる。
 こうした点から、エルサレムの宗教界指導者と洗礼者ヨハネを含むエッセネ派やグノーシス派、さらには、イエスの弟ヤコブが率いていたとされるナジル派(超原理主義集団)等の間で、この日の会合が準備され、ラザロ、マルタ、マリアの一家も何らかの役割を担っていた可能性が予想される。興味深いことに、イエスはエルサレムから派遣された祭司たちの中に立っていた。
○カナの婚礼
このヨハネの証しの数日後、ガリラヤのカナで催された結婚式(ヨハネ2:1)で、母親が葡萄酒がなくなったことをイエスに伝えると、イエスは「女よ、どうして私を巻き込むのか」(ヨハネ2:4)と述べており、結婚披露宴での奇跡の実演がイエスの母親らにより準備されたことが窺える。
 その後数日ガリラヤのカペナウムに滞在したイエスは、過ぎ越の祭りに再びエルサレムにのぼり(ヨハネ2:12-13)、神殿の商人を追い払った。その直後にイエスを尋ねた最高法院のファリサイ派議員ニコデモは、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできません」(ヨハネ3:2)と述べており、イエスを支持するファリサイ派のメンバーや最高法院の議員が少なからず存在したことを暗示している。
 ニコデモに対して「真理によって生きるものは光の下に来る。それは彼の行いは全て神を通じてなされていることを明らかにするためである」(ヨハネ3:21)と述べ、聖霊のバプテスマを通じて実現される霊的再生とは、神人一如の世界を具現することに他ならないことを説き明かしたイエスは、直ちにユダ郊外に赴き、聖霊のバプテスマを施す活動に乗り出した(ヨハネ3:22)。
○洗礼者ヨハネのコメント
弟子から、イエスが聖霊のバプテスマに本腰で乗り出したことを聞かされた洗礼者ヨハネは「彼はその見たこと、聞いたことについて証しをするが、誰もその証しを受け入れない。彼の証しを受け入れるものは、神がまったき真理であると言う証しをするのである」(ヨハネ3:32-33)と言う深遠なコメントを行っている。つまり神に対して心印を施す底の人、神人一如の境地に到達したものだけがイエスの聖霊のバプテスマを受けることができると言うのである。
 これは、中国の南北朝時代末期に文字や経典等の手段を用いず(不立文字)、人の心を指して直ちに(直指人心)、仏性に目覚めさせる(見性成仏)心印を中国に伝えたとされる菩提達磨の教えを彷彿とさせる。ペルシア系王族とも伝えられる碧眼の胡僧は、イエスの処刑後、インドに布教に赴いたトマスの末裔だったかもしれない。
○碧巌録第一則評唱
 達磨遥かに此土《このど》に大乗の根器有るを観て、遂に海に泛《うか》んで得得として来り、心印を単伝して迷塗《めいと》を開示す。不立文字《ふりゆうもんじ》、直指人心《じきしにんしん》、見性成仏《けんしようじようぶつ》。若し恁麼《いんも》に見得せば、便《すなわ》ち自由の分あらん。
イエスがユダ郊外で開始した聖霊のバプテスマ運動は、トマスによりインドに伝えられた後、達磨禅として日本に伝播し、利休の茶の湯や、武蔵や鉄舟の剣禅一味の文化を開花させたと言えそうだ。
【参照】

○千利休(1522-1591)
 戦国時代から安土桃山時代にかけての商人。日本における茶の湯の発展に最も寄与した歴史上の人物。京都で禅の修行も積んだ彼は、1579年、58歳の時、織田信長により茶頭に任じられ、信長の死後は秀吉の側近中の側近になったが、結局、その秀吉により切腹を命じられた。
○辞世の句
人生七十、力囲希咄 (じんせいしちじゅう、りきいきとつ)
我這寶剣、祖仏共殺 (わがこのほうけん、そぶつともにころす)
提ル我得具足の一ツ太刀 (ひっさぐるわがえぐそくのひとつたち)
今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)
○宮本武蔵 (1584 – 1645)
日本の剣豪、二天一流(二刀流)創始者、五輪の書著者。

















古木鳴鵙図(こぼくめいげきず)


大阪和泉市・久保惣記念美術館所蔵

○山岡鉄舟 (1836-1888)
明治維新に重要な役割を担った幕末の幕臣。勝海舟、西郷隆盛とともに江戸無血開城に貢献、明治天皇侍従を務める、一刀正伝無刀流の創始者。



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