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2014-04-11 ArtNo.44954
◆書評:拈華微笑
【書評】過ぎ越の祭りにイエスがエルサレムに滞在している時、多くの人々が、イエスが行った印しを見て、御名を信じた。
 しかしイエスは決してご自身を彼らに委ねなかった。なぜならイエスは彼らを知っていたからである。
 イエスは、人が人について証しをすることを必要としなかった。なぜならイエスは人の内にあるものを知っていたからである。(ヨハネ2:23-25)
○あなたの家を思う熱情が私を焼き尽くす
 ヨルダン川対岸のベタニアでヨハネの洗礼を受けた後、ガリラヤに戻り数日滞在したイエスは、過ぎ越の祭りに再びエルサレムに上り、縄の鞭を振るい神殿の商人たちを追い払った。
 生け贄用の牛や羊を追い出し、両替商のテーブルを引っ繰り返して荒れ狂うイエスの様子を目にした弟子たちは、あまりのすさまじさに唖然としたようだ。
 ヨハネ福音書の著者は、『あなたの家(神の館)を思う(ダビデの)熱情が私(ダビデの肉体)を焼き尽くす』と言う詩編の一節(詩編69:9)を引用し、この世に御国を現成させると言うイエスの一念がイエスの肉体を焼き尽くすであろうこと、すなわちイエスの十字架刑の運命がこの時定まったことを弟子たちは、おぼろげながら気づいたと述べている(ヨハネ2:17)。しかし、肉体を止揚し霊的再生を図る聖霊のバプテスマの神髄をこの世に示すために、イエス自身が選んだ道、それが十字架刑であったことを、弟子たちは、イエスの死後になって初めて気がついたようだ(ヨハネ2:22)。
○人々は御名を信じた
 この時、荒れ狂うイエスの様子を目にしたのは、直弟子だけではなかった。ユダヤ教徒にとって最も重要な祭りの日に、神殿で荒れ狂うイエスの所行を目撃した少なからぬ人々が、これを『印し』と見、『御名』を信じたと、ヨハネ福音書は述べている(ヨハネ2:23)。過ぎ越の祭りには、イスラエル全土ばかりでなく、海外のユダヤ教徒も押し寄せるため、エルサレムの人口は倍増したと言う。
 これらの人々は、決して肉身のイエスを信じたのではない。肉を止揚した御名、すなわち真理の御霊を信じたのである。
○聖霊のバプテスマの極意
 しかし、「イエスは決してご自身を彼らに委ねなかった」と福音書は補足している(ヨハネ2:24)。「なぜならイエスは彼らを知っていたからである。イエスは人が人について証しをすることを必要としなかった。なぜならイエスは人のうちにあるものを知っていたからである」(ヨハネ2:25)。
 これこそ、ヨハネ福音書が伝える聖霊のバプテスマの極意である。生身の人間は、この世にあっては、煩悩と罪にまみれているものの、人は皆、天地が開闢する以前から真理の御霊を具えている。イエスは、人から証しを受けるまでもなく、そのことを知っていた。したがってご自身、すなわち真理の御霊を、委ねる必要などないのである。
 ちなみにNew International Version(NIV)のヨハネ福音書は『But Jesus would not entrust himself to them』と、willの過去形を用いイエスが「未来永劫にわたって、決して委ねることはない」と端的に表現している。キング・ジェームズ版(KJV)は、「But Jesus did not commit himself unto them」と、あさり「イエスは委ねなかった」とだけ述べている。
○この世が与えるようには与えない
 『聖霊のバプテスマ』とは一体何か。イエスは、ヨハネ福音書14章において以下のように説いている。
 「私はあなた方の下に平安を遺します。私の平安をあなた方に与えましょう。私はこの世が与えるような方法では与えません。ですから心配したり、恐れることはありません。(ヨハネ14:27)」『私はこの世が与えるような方法では与えません』と言う言葉に、『聖霊のバプテスマ』がどのようなものかを解く鍵が含まれている。
 それでは、どのように与えるのか?ヨハネ福音書のイエスは次のように説いている。
 「真理の御霊が訪れる時、御霊はあなた方を全ての真理に導いてくれるでしょう。御霊は私のものをとって、あなた方に示します。父に属するものは全て、私のものだからです。ですから『御霊は私のものをとって、あなた方に示す』と言ったのです。(ヨハネ16:13-15)」なぜなら「初めに言葉ありき(ヨハネ1:1)」で、太初においては、万物は言葉(ロゴス)に凝縮されており父も子も一体であったのだから。
 ヨハネ福音書の著者がここで、参照したQ資料原文は、トマス福音書88節の以下の記述と見られる。
 イエスが言った、「御使いたちと予言者たちがあなたがたのもとに来る。そしてかれらは、あなたがたに、あなたがたに属するものを与えるであろう。そしてあなたがたもまた彼らに、あなたがたの手中にあるものを与える。そして、あなたがたは、自らに、どの日に、彼らが来て、彼らのものを受けるかを言う。(トマス88)」
 ヨハネ福音書では、救世主としてのイエスの役割を強調するあまり、回りくどい表現になっているが、トマス福音書の方は、極めて簡潔である。つまり真理の御霊があなた方に施すバプテスマは、本来あなた方のものをあなた方に与えるのであり、バプテスマをいつ受けるかもあなた方自身にかかっていると言うのである。聖霊のバプテスマとは、太初において神と一体であった自己に目覚めることに他ならない。(『キリスト教の起源[02]不立文字』)
○拈華微笑
 その昔、多くの人々が釈迦の説法を聞くため、霊鷲山(りょうじゅせん)に参集した。しかし釈迦は、金波羅華(こんぱらげ)をかざすのみで、いつまでたっても一言も語らなかった。参集した大衆は、ただ黙って見ていたが、一番弟子の迦葉尊者のみがニッコリと微笑んだ。すると釈迦は、「私には文字にも言葉にも表すことができない微妙な法門がある。これを摩訶迦葉に授ける」と語られたと言う。
 無門関と言う公案録を遺した宋代の禅僧、無門慧開和尚(1182-1260)は、「もし迦葉尊者が笑わなかったら、また大衆が全員笑ったら、釈迦はどうしたろう。正法は一体どうなっただろう」と問いかけている。
【参照】

○無門関第六則:世尊拈花
 世尊、昔、靈山會上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時衆皆な黙然たり。惟だ葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼藏、涅槃妙心、實相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別傳、摩訶葉に付囑す。」
無門曰く、
 「黄面の瞿曇、傍若無人、良を壓して賎と爲し、羊頭を懸けて狗肉を賣る。將に謂えり、多少の奇特と。只だ當時大衆都て笑うが如きんば、正法眼藏作麼生か傳えん。設し葉をして笑わざらしめば、正法眼藏又た作麼生か傳えん。若し正法眼藏に傳授有りと道わば、黄面の老子、閭閻を誑す。若し傳授無しと道わば、甚麼としてか獨り葉を許す。」
頌に曰く、
 花を拈起し來って、尾巴已に露る。
 葉破顔、人天措くこと罔し。

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