【書評】聖霊のバプテスマを施すイエスの信者は、水の洗礼を施すヨハネの信者よりも急速に増加した。しかし、ヨハネの信者との間に清めの論争が生じたことから、イエスは布教の拠点をガリラヤに移すことにした。
ガリラヤに戻る途中、イエスはサマリヤの水くみ女に、「神は霊である。霊と真(マコト)をもって(in spirit and in truth)祈るものは、永遠に尽きることのない命の水を手に入れることができる」と、聖霊のバプテスマの神髄を説き明かした。
ちなみに、日本福音派の牧師内田和彦氏によると、パウロは、その書簡の中で『キリストにあって(in Christ)』あるいは『主にあって(in the Lord)』と言う表現を172回用いていると言う。
『再活現成(聖霊のバプテスマ)』を根本宗旨とする禅宗で尊ばれる金剛教には「まさに住する所なくして、その心を生ずべし(応無所住而生其心)」と言う有名な句が記されており、金剛経の教義の全体がこの八文字に凝縮されているとされる。
日本の敗戦が間近に迫った頃、片田舎に疎開した家族の幼子が疫痢にかかり死にかけた。近くには医者もおらず困り果てた母親は、村のマッサージ士に往診を依頼した。マッサージ士は子供の腹部に椿油を塗りつけると、「おうむしょじゅうにしょうごうしん」と唱えながら一心不乱に夜明けまでマッサージを続けた。子供は奇跡的に蘇生、母親も、教えられたとおり「大麦小麦二升五合」と唱えマッサージ治療を続けた。そして子供はついに全快した。喜んだ母親は、その後も、困難に直面した際にはいつも「大麦小麦二升五合」と呪文を唱えて乗り切った。しかし有るとき知人から、「それは『大麦小麦二升五合』ではなく『おうむしょじゅうにしょうごうしん』と唱えるべきであり、『まさに住する所なくして、その心を生ずべし』と言う意味だ」と教えられた。それ以来、呪文の効果は無くなったと言う。
○サマリヤの女
ユダヤからガリラヤに向かう道すがらサマリヤを通過したイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地近くの井戸で休憩された。喉の渇きを覚えたイエスは、水くみの女に「その水を一杯分けてくれ」と請うた。
すると女は「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤ人の私に水を求めるのか」と問い返した。サマリヤ人はユダヤの一部族だったが、他民族と混血していたため、血統を重んじるユダヤ人から蔑まれ、ユダヤ人とサマリヤ人はほとんど交際していなかった。
イエスは「もし私が誰かを知っていたなら、お前の方から願い出て、生ける水をもらったであろうに」と答えた。
女は言った「井戸は深く、水を汲む道具もないのにどうやって水を手に入れるのか。この井戸はヤコブが私たちの先祖に賜ったものだが、あなたはそのヤコブよりも偉大だと言うのか。」
イエスは答えた。「この井戸の水を飲むものは、誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲むものは渇くことがないばかりか、その人のうちには永遠の命の泉が湧き出るだろう。」
女は即座に答えた。「それならその水を今すぐ私に与えなさい。」
イエスは言った。「その前にあなたの夫をここに連れて来なさい。」
女は答えた。「私に夫はいない。」
イエスは言った。「あなたには5人の夫がいた。しかし今の男はあなたの夫ではない。あなたの言うことはもっともだ。」
女は言った。「あなたは予言者か。それなら聞きたい。私たちは昔から、この山で祈祷して来たが、あなた方ユダヤ人はエルサレムこそ礼拝すべき場所と言うのは何故か。」
イエスは言った。「女よ、私を信じなさい。あなた方がこの山でも、エルサレムでもないところで礼拝する時が必ず来る。あなた方サマリヤ人は自分の知らないものを拝んでいるが、我々ユダヤ人は知っている方を拝んでいる。救いはユダヤ人から来るからだ。真の礼拝者達が霊とまことをもって礼拝する時はすでにそこまで来ている。いやもうその時は来ている。神は霊であり、礼拝するものもまた霊とまことをもって礼拝せねばならないからだ。」
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○ユダヤ人と非ユダヤ人が共存できる新たな枠組み
○過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得
○信仰は霊山を選ばず
○御わざの成就
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