契約の民の流浪史 (キリスト教の起源)
村上厚
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[序文]
チグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミアからパレスチナにかけた地域には、古くから農耕民と遊牧民が共生する都市国家が興亡して来た。大部分の都市国家の主役は農耕民だったが、遊牧民は、西方のエジプトのみならず東方のインドや中国とも交易し、異文化融合の触媒を務めて来た。
これらの遊牧民には、メソポタミアやエジプトの文化的背景を有するルベン族、シメオン族、レビ族、ユダ族、ゼブルン族、イッサカル族、ダン族、ガド族、アシェル族、ナフタリ族、ヨセフ族、ベニヤミン族以外に、チベット人や日本列島の先住民縄文人に特徴的な『Y染色体D』遺伝子を保持し、古モンゴロイド(Paleo-Mongoloid)に属すると見られるエフライム族とマナセ族が含まれ、それぞれ異なる氏神を奉じていたが、今から3000年乃至4000年前に単一の始祖アブラハムと神との契約に基づく祭政一致の部族聯合を組織、農耕民に替わって歴史の表舞台に登場した。契約の民の誕生である。
ユダヤ教は元来排他的で内向的な宗教だったが、イスラエルの十二部族が、古モンゴロイドに属し外向的且つ融和的なエフライム族とマナセ族を取り込んだことにより、ユダヤ教やキリストは、地中海沿岸地域のみならず、中央アジアやインド中国、さらには日本列島まで伝播、また東方キリスト教諸教会の原点とされる景教が、イスラム教の誕生や大乗仏教運動の起爆剤の役割を担った。こうしてユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒として、生き続ける契約の民の総数は,今や34億人に達すると言う。
さて久保有政氏によると、トマスはイエスが昇天した2年後、したがって西暦35年頃、アッシリアからインドに赴いた後、チベットを経由して中国に伝道、西暦62年に現在の北京に至り、教会(会衆)も組織したらしい。それにしても、トマスは何故後漢の帝都洛陽や長安ではなく、薊県(けいけん)と呼ばれた北辺の地方都市に赴いたのだろうか。パウロにしろヨハネにしろ、当時の使徒達は皆、ユダヤ人コミュニティーがすでに存在した地域に伝道しており、恐らく当時の北京にもユダヤ人コミュニティーが存在していたものと見られる。
そういえば、中国河南省東部の開封市で発見された『重建清真寺記碑』には、秦の王賁(おうほん)将軍が魏の王都大梁(現在の河南省開封)を陥落させた紀元前231年に同市に最初のユダヤ人コミュニティーが形成されたと記されていると言う。そのほぼ十年後の紀元前226年に王賁将軍は燕の王都薊城(北京)を陥落させ、紀元前222年に燕を滅した。
秦の母体と見られる羌族(きょうぞく)は文字通り羌(ひつじ)を放牧する遊牧民で、イスラエルの失われた十部族の帰還援助組織アミシャーブによれば、典型的なマナセの末裔という。
このため王賁将軍には直属のユダヤ人傭兵部隊が存在し、同将軍が転戦した地域にはこうした傭兵部隊の家族のコミュニティーが形成されたのではなかろうか。
ちなみに春秋戦国時代から秦漢時代に書かれた中国最古の地理書『山海経』には「蓋国は燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す」と記されている。これが中国の書籍に『倭』が登場する最初の例とされる。どうやら春秋戦国時代から秦漢時代にかけて『倭』は『燕』の一部と見なされていたようだ。だとすれば、トマスが燕の古都薊城を訪れた当時、同地のユダヤ人コミュニティーは、饒速日尊がエフライムの協力の下に近畿地方に建てた大和国や、応神天皇の時代に日本に帰化したマナセ族の末裔の秦氏と密接な関係を保持していた可能性がありそうだ(後述)。
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